プラハの街はヴルタヴァ川で東西に分けられていますが、 プラハ城が西岸の中心なら東岸の対応する地点に「プラハ市民会館」があります。
1912年完成の華麗なアール・ヌーヴォー様式の文化施設で、入口上部には カレル・スピラー作の「プラハへの敬意」と題されたモザイクがあります。
コンサート会場やカフェ、レストランがある市民憩いの場なのですが、 2013年6月に前を通ると、3階のエキシビション・ホールを使って 「イワン・レンドル:アルフォンス・ムハ」と銘打った企画展が催されていました。 イワン・レンドルはチェコスロバキア出身のテニスの名選手で 4大大会8勝、シングルス1071勝などの大記録を持つ往年のスター選手ですが そのレンドルとムハにどんな関係があるのか。
サブタイトルにムハのポスターの完全なコレクションとあります。 入場券を買って入ってみると奥で映画を映写中。
レンドルや学芸員等の関係者がこの特別展の経緯と価値を語っているのです。 アメリカに帰化したレンドルは英語で話し、チェコ語の字幕付きで 学芸員や地元の関係者がチェコ語で話す部分は英語の字幕付き。
それによるとレンドルは22歳でムハ(フランス語ではミュシャ)の息子ジリ・ムハと 知り合い、以来アルフォンス・ムハに興味を持ち、ムハの油彩画をオークションで 競り落としたのを契機にムハのポスターの収集を始め、 世界一のコレクターになったというのです。
実際特別展には240点ものポスターやカレンダー、デザイン画、デッサンが 展示されレンドルが最初に買ったという油彩画もありました。
これまで方々の美術展でムハのポスターを見てきましたが、初見のものも多く、 完全に残っているものは世界でこれだけという、1904年のサラ・ベルナールの ニューヨーク公演のポスターもあり、驚愕の内容でした。
予定外のこういう幸運に巡り合うのも旅の楽しみの一つです。
アルフォンス・ムハ(1860-1939)は現在のチェコのモラヴィアの生まれで、 幼少時から絵の上手だったムハは中学校を中退して働かざるを得ない環境でしたが クーエン伯爵の居城の装飾で認められ、伯爵の援助でミュンヘンの美術院に入学。 24歳の時でした。27歳で卒業しパリに出ます。
パリで日の目を見ることなく暮していたムハに芸術の女神が微笑んだ時には、 彼は34歳になっていました。時の大女優サラ・ベルナールの年明けの舞台 「ジスモンダ」のポスター注文がムハの勤めていた印刷所に舞い込んだのです。
ところがクリスマス・イヴの事で皆休暇を取っており、居たのはムハだけ。
選択の余地はなく、ムハがその仕事を引き受けたのですが、 ムハ渾身のデザインは雇い主の心配を他所にサラには大受け。
パリの街角に張り出されたムハのポスターは大評判となり、 一夜にしてムハはアール・ヌーヴォーの旗手になるのです。
このポスターは当時パリでは言葉も定着してなかったアール・ヌーヴォー様式の 典型とも言えるもので、草花をモチーフとした幾何的な文様や、曲線を多用した 平面的で装飾的な画面構成に加え、ムハの独創である極端に縦に伸びた画面構成、 異国趣味的な表現、対象の特徴を的確に掴んだ視覚的な美しさ、 単純化と意匠化された文字装飾等、ムハ独自の個性が躍動しています。
以後サラと専属契約を結んだムハはパリのみならず世界的名声を得る事になります。
ムハにはポスターだけでなく種々の広告や挿絵、リトグラフなどの注文が舞い込み 時代の寵児となるのですが、その生活を捨て、 46歳でプラハにて結婚後、4年間をアメリカで暮らし、 子供を儲けてプラハに移り住み、スラヴ民族の歴史と独立を謳い上げる 20点の連作大作、「スラヴ叙事詩」に没頭して20年間を過ごすのです。
1918年にチェコを支配していたオーストリア帝国が崩壊し、 チェコスロバキア共和国が誕生すると新国家のために紙幣や切手、国章などの デザインを無償で行ったと言います。
なおイアン・レンドルのコレクションは、この特別展を契機に プラハでの常設展示の可能性があると映画の中でほのめかされていました。
そうすれば集客力の有る観光名所がプラハにもう一つ増える事になります。