美術館訪問記-155 プラハ国立美術館-シュヴァルツェンベルク宮殿

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:シュヴァルツェンベルク宮殿外観

添付2:シュヴァルツェンベルク宮殿壁面拡大写真

添付3:シュヴァルツェンベルク宮殿最上階の武器庫

添付4:ハンス・フォン・アーヘン作
「ルクレティアの自殺」

添付5:カレル・スクレタ作
「聖母子と聖カタリナ、聖バルバラ」

添付6:ヤン・クペツキー作
「カール・ブルーニの肖像」  

添付7:ペトル・ブランドル作
「幼子キリストを抱くシメオン」

添付8:マティアス・ブラウン作
「十字架のキリスト」

プラハ城前のフラチャニ広場に建ち並ぶ多くの宮殿の中でも、 独特の模様の壁が一際目立つ宮殿があります。

これが「プラハ国立美術館-シュヴァルツェンベルク宮殿」

遠くから見れば切石積みの壁の建物に見えますが、 これはスグラフィット技法と呼ばれる装飾で、凹凸があるように見える壁は、 実は平面的な「だまし絵」なのです。

スグラフィット技法(掻き絵手法)はイタリアで開発され、16世紀半ばに ボヘミア全土に広がった装飾技術で宮殿や住宅の壁を飾ったのです。

この宮殿はプラハ国立美術館の一つとしてボヘミアのバロック美術に 捧げられており、160体の彫刻と280点の絵画があるとか。

エレベーターで3階まで上がり、その階の絵画を見終えると スタッフが横の扉を指差し、そちらへ行くようにという仕草をします。

扉を開けると階段があり、そこを上がると武器庫のある最上階に出るのでした。

1階から3階まではボヘミア美術が展示されていましたが、 知った名前は世界中の美術館で見かけるハンス・フォン・アーヘンしかありません。

彼は1552年ドイツ、ケルンの生まれで22歳の時イタリア各地を回った末 ヴェネツィアに落ち着き14年間滞在。ティントレット等に学んでいます。

ドイツに帰国後肖像画の名手として名を売り、4年後には神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の宮廷画家に任命されて神聖ローマ帝国の首都だったプラハに移り、 この地で没しているのでした。

チェコ人で目に付いた画家を数人挙げてみますと、 先ずカレル・スクレタ(1610-1674)。

プラハの生まれですが、家族がプロテスタントだったためカトリックの弾圧を避け、 ドイツに移り住み、そこで画家の修業後イタリアを旅して腕を磨き、 20代でカトリックに改宗して故郷に戻り、 王侯貴族、教会から多くの注文を受けています。

ヤン・クペツキー(1667-1740)。 チェコのプロテスタントの両親の下に生まれ、ウィーンで画家の修業をし、 20歳でイタリアへ行き、22年間をヴェネツィアとローマで過し、 42歳でウィーンへ帰国。王侯貴族、教会から多くの注文を受けています。

66歳で宗教的な危機感からドイツのニュルンベルクへ家族で移住し、 そこでも多くの注文を受け、彼の作品は生存中に版画化されるほどでした。

洗練された肖像画が多く、特に「カール・ブルーニの肖像」 は見事。

ペトル・ブランドル(1668-1735)。 生存中は国際的にも著名な画家だったようですが、死後国際的には忘却されて しまったようです。しかしこの美術館では一部屋が彼の為に割かれていました。

際立った明暗法を用いて肖像画や宗教画を多く描いています。

彫刻にはあまり目が行かないのですが、マティアス・ブラウン(1684-1738)の 「十字架のキリスト」の迫真の形態には打たれました。

彼はイタリア各地に赴いてミケランジェロやベルニーニの彫刻に学び、25歳時には プラハに落ち着き、重要な作品を産み出していったようです。 プラハのシンボル、カレル橋にも彼の作品が幾つか残っています。

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