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美術館訪問記 No.15 石橋美術館

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

石橋美術館

青木繁作
「海の幸」

青木繁作
「女の顔」1904年作
個人蔵、大阪市立美術館寄託
モデルは福田たね

青木繁作
「わだつみのいろこの宮」

藤島武二作
「天平の面影」

前回触れた青木繁の「海の幸」は、福岡県久留米市にある「石橋美術館」所有です。

この絵は、大きな魚を肩に担いで力強く行進する11人の男女を描いた、 それまでの日本絵画史上に例のない原始的なエネルギーを発散する独創的な作品で、この夭折の天才の創造力に圧倒されます。

絵には構図を決めるための素描の線や、キャンバスの生地もそのまま残っている部分もある、当時の画壇常識からすれば、未完とも言える作品。

しかし青木の天才は常識とは無縁でした。 これ以上筆を進めれば、絵の持つ力を殺ぐという確信が彼にはあったに違いありません。 それは前々回のセザンヌの「大水浴」の塗り残しに通じる「未完の美」なのでしょうか。

青木繁(1882-1911)は福岡県久留米市の生まれで、画家の坂本繁二郎とは小学生からの同級生。生涯を通じて親友であり、ライバルでもありました。 18歳で東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科に入学した青木は黒田清輝の指導を受けます。

同級生だった熊谷守一は、青木は黒田清輝が教室に来ると、ふところ手をして、教室からそっと出て行き、黒田がいなくなるとそっと戻ってきた、と回想しています。自尊心が強く、アレクサンダー大王に憧れていたという青木らしいエピソードですが、内心は黒田の画技には敬服していたようです。

1904年東京美術学校を卒業した青木は友人の坂本、森田恒友、恋人の福田たねと房総半島の布良海岸(館山市)に写生旅行に出かけます。1ヶ月半の滞在の間に海を題材とした作品を幾つか仕上げました。その中の一つが「海の幸」だったのです。

この絵は青木が実際に見た風景ではなく、坂本が浜辺で目にした漁猟風景を聞いた青木が、想像を膨らませて一気呵成に描き上げたものだといいます。

古事記を愛読したという青木は、日本の神話から題を採った作品や「海の幸」のように、西洋絵画のものまねではない、独自の想像力と創造力による浪漫的な作品を産み出すのですが、本人の期待よりも画壇の評価は低く、一子(後の福田蘭童)を生した、たねとも結婚しないままに別れ、失意の内に福岡に戻り、放浪の果てに28歳の若さで病没します。

石橋美術館には「海の幸」とともに重要文化財に指定された青木繁の「わだつみのいろこの宮」や、藤島武二の同じく重要文化財「天平の面影」もあります。 これらの絵は教科書にも取り上げられていたと思うので、ご存知の方も多いでしょう。

この美術館は美しい公園の中に立つ2階建。 ブリヂストンの創業者である久留米市出身の石橋正二郎が1956年、同社の創立25周年を記念して建設、久留米市に寄贈したものです。

次いで長男の幹一郎が死の前年、1996年に別館を建設、寄贈し、そこでは雪舟、円山応挙、竹内栖鳳、横山大観などの日本画や書、陶磁器、工芸品等を展示しています。

本館には日本人の手になる洋画が展示されています。

他にも、中丸清十郎、百武兼行、黒田清輝、和田英作、岡田三郎助、浅井忠、山下新太郎、安井曽太郎、満谷国四郎、長谷川利之、小出楢重、青山熊治、遠山五郎、佐伯祐三、岸田劉生、牧野虎雄、梅原龍三郎、坂本繁二郎、古賀春江、児島善三郎、海老原喜之助、藤田嗣治、中西利雄、山口長男、等、

明治、大正、昭和の日本の洋画の全貌が理解出る美術館です。

日本人画家作品の収集に限れば、九州のみならず、日本でもトップクラスでしょう。 特に久留米市出身の青木繁、坂本繁二郎、古賀春江の収集には力が入っており、彼らの生涯作品の変遷をここで一望できるほどです。

石橋正二郎は坂本繁二郎が郷里で教員をやっていた時の教え子であり、青木繁作品の散逸を憂えた坂本が石橋正二郎に購入を依頼したのが、正二郎の最初の絵画購入であり、それから彼の収集が始まったといいます。

なお、この美術館の運営・管理は石橋財団が行っています。

(*坂本繁二郎作「放牧三馬」は著作権上の理由により割愛しました。管理人)

美術館訪問記 No.16 はこちら

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