美術館訪問記-130 リュクサンブール美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:リュクサンブール美術館

添付2:モディリアーニ展に並ぶ人々

添付3:モディリアーニ展内部

添付4:モディリアーニ作
「女性頭部」
ロンドン、テート美術館蔵

添付5:モディリアーニ作
「赤いショールのジャンヌ・エビュテルヌ」
個人蔵

添付6:パルミジャニーノ作
「長い首の聖母」
フィレンツェ、ウフィツィ美術館蔵

添付7:モディリアーニ作
「ポール・ギヨーム」
ミラノ市立近代美術館蔵

添付8:ジャンヌ・エビュテルヌ

パリ、リュクサンブール公園の南にはザッキン美術館がありますが、 公園内の北側には「リュクサンブール美術館」があります。

ここはもともとアンリ4世のもとにメディチ家から嫁いだ マリー・ド・メディシスが設営した、名高い庭園をもつ宮殿でした。

ルーヴル美術館の目玉の一つになっている、ルーベンス作、24点の大連作 「マリー・ド・メディシスの生涯」は、当時この宮殿の大回廊を飾っていたとか。

王政復古期の1818年に ルイ18世が同時代の美術家の作品を展示するための美術館としました。

ここに収蔵された現存作家の作品は、死後10年経つと 念願のルーヴル入りを果たせたということで、 リュクサンブール美術館は当時、「ルーヴルの待合室」と呼ばれていたといいます。

  しかしコレクションはポンピドー・センターやオルセー美術館の完成に伴って 移され、現在は特別展専用の美術館として使われています。

パリではグラン・パレと並んで他所の真似の出来ない 素晴しい企画展を開催する場所になっています。

2002年の12月、パリに滞在した時はまだそんな知識はなく、 日本では特に情報もなかったため、訪館プランはありませんでした。

しかしパリを動き回っている時に、偶々地下鉄の張り紙広告で「モディリアーニ展」 をやっているというのを目に留め、近くに寄った際、ダメモトで行ってみました。

公園前の車道脇の鉄防柵のついた狭い歩道は長蛇の列。

30分程並んで入ってみて驚きました。 本当に久し振りにビックリしたのです。

狭い館内に、黒い鉄パイプを格子状に組んだ、 にわか作りの展示壁が迷路のように張り巡らされ、 その上と元々の壁に隙間なくビッシリ、モディリアーニの作品が並んでいます。

何とその数106点、全部油彩です。別にデッサンが39点。

世界中から集めに集めたり。 個人所有の作品も多く、見たことのない絵も沢山あります。

鉄パイプを組んだだけですから、隣の通路から前の通路側の絵の裏側が見えます。

中に1つ、日本語で「#16 知られざるモディリアーニ展」大和運輸 と書かれた荷札が裏側についたままのデッサンもありました。

「知られざるモディリアーニ展」は上野の森美術館で1994年に、 未発表デッサン376点と共に絵画や彫刻、書簡を展示した インパクトある展覧会でした。

これらはモディリアーニと親交のあった医者のポール・アレクサンドルが、 直接買い取って保存していたものでした。

アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)はイタリア、リヴォルノの生まれで、 16歳で結核に侵され、療養のため母親とナポリ、ローマ、フィレンツェ、 ヴェネツィアを旅し、各地の美術館や教会で古典美術に心震える思いをします。

19歳でヴェネツィアの美術学校に入り、22歳でパリに出、モンマルトルに住み ピカソやディエゴ・リベラ達と親交を結びます。

この年セザンヌが死亡していますが、 翌年開かれた回顧展でセザンヌの作品に衝撃を受けます。

この頃ポール・アレクサンドルと知り合い、 彼がモディリアーニの作品の最初の購入者になってくれるのです。

25歳でモンパルナスに移った後、彫刻に没頭します。

彼の借りた家の隣に近代彫刻の父とも称されるコンスタンティン・ブランクーシが 住んでおり、彼から、昔から抱いていた彫刻への憧れに火を点けられたのです。

しかしモディリアーニはロダンのように粘土で形を作る彫塑ではなく、 大理石や木材を刻む彫刻を好んだため、材料入手の資金難と健康悪化の 体力的問題があり、30歳頃から彫刻を諦め、絵画に専念するようになります。

この頃、画商のギヨームや画家のスーティン、藤田、キスリング等とも知り合い、 エコール・ド・パリ(第11回で解説)の一員として活躍するのですが、 生涯貧困から逃れることはできず、過度の飲酒と破滅的生活のため、 結核性髄膜炎に罹り、35歳で死亡してしまうのです。

3年前に知り合った時19歳だった、 画学生ジャンヌ・エビュテルヌと熱烈な恋に落ち、長女をもうけていたのですが、 第2子を身ごもって妊娠9カ月だったジャンヌは絶望の余り、 彼の死の翌日、実家の窓から身を投げ自殺してしまいます。

モディリアーニがジャンヌに死の間際に残した言葉が 「天国でも僕の最高のモデルになってくれ」

モディリアーニが評価され、作品価格も高騰し始めるのは死の直前でした。

彼の作品は殆ど全て、肖像画とヌードですが、長い首と引き伸ばされた身体、 往々にして瞳の無いアーモンド形の眼、やや傾いた身体が特徴です。

これらは少年期に観たイタリア古典、特にマニエリスム(第95回で解説)の画家達と 彫刻からの影響が考えられます。

添付の「赤いショールのジャンヌ・エビュテルヌ」は、赤と青という伝統的な 聖母の身に着ける衣装を着たジャンヌの肖像で、モディリアーニにとっては ジャンヌがまさにミューズであり、聖母だった事を示すかのようです。

マニエリスムを代表する画家パルミジャニーノの描いた聖母子の 長い首と長い指、S字型の動きを感じさせるポーズに、 モディリアーニの絵との類似性を見る事ができるでしょう。

当時吹き荒れていた抽象絵画やキュビズムなどの前衛芸術とは一線を画し、 愛する故郷イタリア古典芸術の伝統を受け継ぎながら 他に類をみない独自の世界を描き遺したモディリアーニ。

全く予想してなかった彼の珠玉の作品を145点も楽しめ、 思わぬ宝籤に当たったような豊かな気持ちになりました。

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