美術館訪問記-123 モーリス・ドニ美術館 “ル・プリウレ”

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:モーリス・ドニ美術館“ル・プリウレ"

添付2:ポール・セリュジエ作「タリスマン」1888年
オルセー美術館蔵

添付3:モーリス・ドニ作「葉盛り」

添付4:“ル・プリウレ”前でのドニの自画像

添付5:ヴァロットン作「裸婦」

添付6:ゴーギャン作「ボスの娘」

パリから高速郊外鉄道RER-A線で30分近く走ると 終点サン・ジェルマン・アン・レー駅に着きます。高台にある駅です。

駅から西に1km程歩いて高台が下りになる坂道の途中に 「モーリス・ドニ美術館“ル・プリウレ”」があります。

ル・プリウレとはフランス語で「小修道院」という意味で、 もとは修道院だった建物をモーリス・ドニが1914年に買い取り、 死ぬまで30年間住んでいた家なのです。

モーリス・ドニ(1870-1943)はフランス、ノルマンディー地方の グランヴィルの生まれで、絵画の道を志し、美術館に通って巨匠の作品を模写して 多数の素描をこなし、18歳でアカデミー・ジュリアンに入学。

ここでポール・セリュジエ、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、 フェリックス・ヴァロットンらと知り合うのです。

当時、ブルターニュ地方ポン=タヴェンで制作活動を行っていた ゴーギャンにセリュジエが教えを受け、「あまり自然に即して描いてはいけない。 自然に存在しないような鮮烈な色彩を思い切って用いるように」 と言われながら描いたのが「タリスマン(護符)」。

この斬新な考え方に魅了された仲間達は、装飾性と表現性の二つの特色を はっきりと兼ね備えた前衛芸術家グループ、ナビ派を結成するのです。 ナビとはヘブライ語で預言者の意味です。

最初のナビ派展が開かれたのは1891年の事でした。

「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、本質的にある秩序で 集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを、思い起こすべきである」 というドニの有名な言葉がありますが、 ドニは最年少ながらナビ派の指導者的立場に着く事になります。

このドニの絵画の平面性の主張はセザンヌ以降の近代絵画の定義や理論考察に 多大な影響を与え、近代主義絵画の理念となっていったのでした。

10年足らずでナビ派が解散した後も、ドニは独自の感覚で古典的な美しさを追求し、 自らも敬虔なカトリック信者であった彼は、優美な曲線と神秘的な色彩によって、 平和で幸福なイメージを身近な光景のなかに描き込みました。

ル・プリウレの前に立つ自画像の背景にも 彼の愛した家族の姿が描きこまれています。

ドニはパリのシャンゼリゼ劇場の設計で知られる建築家オーギュスト・ペレに 荒れ果てていた建物の修復を依頼し、特に礼拝堂はナビ派の友人達に頼み、 ステンドグラスや壁画で美しく装飾しました。

彼の死後、建物と土地は県に寄贈され、学校兼子供達の施療院として 使われましたが、ドニの家族からのドニ作品やドニの収集作品の寄贈を基に 1980年県立美術館として開館しました。

ここにはドニの作品が油彩、水彩、パステル、素描、版画、壁画、ステンドグラス、 モザイク等、数多く収められています。

他にもナビ派の創始者とされるポール・セリュジエやボナール、ヴュイヤール、 ランソン、ヴァロットン、ルーセル、マイヨール等のナビ派のメンバーの作品、 ナビ派に影響を与えたゴーギャンやエミール・ベルナール、ルドン等もあります。

ドニが造らせた庭園ではブールデルの彫刻や薔薇園、噴水等も楽しめます。