美術館訪問記-122 ドラクロアの家

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ドラクロアの家、中庭から撮影 館内は撮影禁止

添付2:ドラクロアの家入口

添付3:ドラクロア作「天使と格闘するヤコブ」
サン・シュルピス聖堂壁画 1854-61

添付4:ドラクロア作「自画像」 
ルーヴル美術館蔵 1837

添付5:ドラクロア作「民衆を導く自由の女神」
ルーヴル美術館蔵 1830

添付6:ドラクロア作「アルジェの女達」
ルーヴル美術館蔵 1834

添付7:ドラクロアの家の中庭

再び話をパリに戻し、今日は「ドラクロアの家」についてです。

第116回で述べたフレディック・レイトンは、彼の家を建てる前に、 ドラクロアのアトリエを訪ねており、自分の家もドラクロアのように、 きちんとしたアトリエを構えるのは勿論、上流人物の接待や アーティストとの交流にも適するものにしようと考えたということです。

パリで一番小さな広場、フュルスタンベール広場に面するこの美術館は 普通の民家のように何気なくあり、 住所と地図がなければ見逃してしまいそうな佇まいです。

ここは「天使とヤコブの闘い」で有名なサン・シュルピス聖堂の壁画に取り組む為に ドラクロワが移り住み、はからずも最期まで過す事になったアトリエと住居でした。

ウジェーヌ・ドラクロワは1798年、翌年知事になる外交官シャルル・ドラクロワの 長男として誕生しましたが、実の父親は家族の親しい友人で、フランスの外務大臣、 首相を歴任し、ウィーン会議でフランス代表を務めたタレーランと言われます。

というのも両者の容貌が良く似ており、7歳で父を、16歳で母を亡くした ドラクロワは、後に政府外交使節の記録画家や政府の大建築の装飾を任される等、 政府の要人だったタレーランが手を廻して庇護したと見られています。

絵画の道を志したドラクロワは19歳で新古典主義の画家 ピエール=ナルシス・ゲランに入門し、そこでロマン主義を代表する画家の一人、 テオドール・ジェリコーと知り合い、強い影響を受けます。

夭折したジェリコーの後を受けロマン主義の旗手となったドラクロアは 24歳でサロンに初入選後、次々と政府買い上げになる傑作を発表します。

1830年の「民衆を導く自由の女神」は同年勃発した七月革命を主題としていますが、 ロマン主義を代表する絵画と見做されています。

1832年政府使節団の一員としてモロッコ、ナイジェリアなど北アフリカへの旅行に 随行し、同地の強烈な陽光によって光と色彩の重要性を認識するのです。

帰国後描かれた「アルジェの女達」は、異国情緒溢れる東方的主題と共に、 強烈な光の下では「陰にも色彩がある」事を発見したドラクロアの色彩表現が、 当時の人々ばかりでなくマネやルノワール、セザンヌ、ゴッホ等を魅了したのです。

あのピカソでさえ、この絵に深く感銘し、大胆なデフォルメと華麗な色彩による 「アルジェの女達」連作を描いています。

1863年ドラクロワはこの家で息を引き取りましたが、その後持ち上がった解体話を、 ドラクロワを深く信奉するモーリス・ドニやポール・シニャック等が中心となった 「ドラクロワ友の会」が食い止め、 1971年、国立ドラクロア美術館の設立となったのです。

ドラクロアの住居兼接客場所だった2階屋と隣接する別棟のアトリエに、 生涯を変える旅になったモロッコからの土産物の数々や、自筆の手紙や手帳、 実際に使用したパレット等が陳列されています。

彼の残した作品も多く、大部分は小品ですが、油彩29点、パステル2点、 リトグラフ20点を数えました。

他にも彼の収集したフラゴナール、 従兄弟の画家、レオン・リーズネルの絵が2点ずつありました。

ゆとりのある中庭に置かれたベンチに坐り、 「ルネサンス最後の、そして近代絵画最初の巨匠」とまでボードレールに称えられ、 フォーヴィスムや印象派に多大な影響を与えた ドラクロワと彼の絵について、想いを巡らしたことでした。