美術館訪問記-120 藤田嗣治のアトリエ

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付3:藤田嗣治の家、道路側

添付4:藤田嗣治の家、裏側

添付5:藤田嗣治の家、台所

添付6:藤田嗣治の家、アトリエ

芸術の都パリには沢山の、芸術家の家だった美術館があります。

パリの南西30kmの所に、Villier-le-Bacle(ヴィリエ=ル=バクル)という 寒村があり、ここに「藤田嗣治のアトリエ」があります。

藤田 嗣治(1886–1968)は東京の生まれで、父は森鴎外の後任として、 最高位の陸軍軍医総監にまで昇進した陸軍軍医でした。

兄嫁の父は陸軍大将児玉源太郎で、第2次大戦中藤田が日本で戦争画を描き、 終戦後は国賊のように扱われた下地はここにもあったのでしょう。

子供の頃から絵を描くのが好きだった藤田は、父の上司だった森鴎外の勧めもあり 東京美術学校(後の東京芸術大学)に入学し、西洋画科に入ります。

しかし藤田は教師から見ると不真面目な生徒だったようで、全く評価されず、 藤田の方もフランス帰りの黒田清輝らの指導する印象派絵画に馴染めず、 卒業後も落選を繰り返し、全く芽が出なかったのです。

26歳で新婚の妻を残し、単身パリに渡った藤田はピカソのアトリエで キュビズム絵画やルソーの素朴派絵画に衝撃を受け、 「絵画は実にかくまでに自由でなければならないのだ」 と日本での学習は全て捨て去り、独自の画風をひたすら追求します。

苦節8年。1921年のサロン・ドートンヌに満を持して出品した彼の3点は 会場の呼び物となり、一躍画壇の寵児となるのです。

乳白色に輝く裸婦の肌と、画面全体を支える美しい白い地は、 誰も真似する事のできない「藤田の白」と言われ、 面相筆で描いた細くて鋭い線と共に、藤田独自の個性を主張し、 独特のおかっぱ頭とロイド眼鏡で盛り場に繰り出し、 フランスでは知らない者がない、と言われる人気者になってしまいます。

今でも、世界的に名の知られた日本人の筆頭に挙がる一人、と言えるでしょう。

1933年、日本に凱旋帰国。 2年後に25歳下の君代と恋に落ち、5度目の結婚をします。

第2次大戦の勃発に際し、陸軍美術協会理事長に就任することとなり、 従軍画家として戦地を廻り、戦争画を描くのです。

この時の戦争協力への戦後に湧きあがった人身御供的な批判に嫌気が指した藤田は、 1949年パリに出て、以後二度と日本には戻らず、1955年フランス国籍を取得します

さて、このアトリエは藤田が1960年購入し、1年以上かけて自分の好みに改造して 1968年の死の直前まで住んでいた家です。

君代夫人が1991年まで住み、日本に移る時に県に寄贈。 2000年から一般に公開されています。

元は農家のようで、道の端に接して建つ小さな家です。

道の下は急斜面になっており、家の後は下り坂の林です。 道から見れば地下になる1階には台所とダイニング、 玄関のある2階にはリビングと寝室。

狭い階段を上がった屋根裏部屋にアトリエがあります。

下の4部屋は狭いながらもこざっぱりとして、藤田が蚤の市で買ってきた アンティークや自製の小物で飾られた通常の暮らしの佇まい。

しかしアトリエは雑然として画材や絵のための小道具が散らばっています。 藤田が使ったというミシンも置いてあります。

格闘家達の並んだ大きな絵が1点と、藤田がデザイン、装飾を 一手に引き受けたランスの礼拝堂の壁画の下絵になった、 聖母子を囲む大勢の人々と十字架上のキリスト図がありました。

ランスの壁画を描く前に、 ここで納得の行くまでフレスコ画の技を試したのでしょう。 しかしそれらの絵は試し描きというより、完成作といってよい出来でした。

ここは県の職員なのでしょうか、魅力的な女性が上手な英語で案内してくれました。 日本語の音声ガイドもついています。

土日の限られた時間しか開いてなく、パリからは電車とバスを乗り継いで 2時間近くかかります。

藤田夫妻は友人のドライバーに頼りきりだったとか。

(*添付1:藤田嗣治作「寝室の裸婦キキ」および 添付2:藤田嗣治作「自画像」は著作権上の理由により割愛しました。
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