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美術館訪問記 No.12 イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

フェルメール作
「絵画芸術」
ウィーン美術史美術館蔵

イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館外観

イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館内部

ティツィアーノ作
「ヨーロッパの略奪」

フェルメール作
「合奏」

サージェント作
「ガードナー夫人の肖像」

分子生物学者の福岡伸一監修のフェルメール・センター銀座が 今年1月20日にオープン以来結構混み合っているとかで、 日本でのフェルメール人気は衰えをみせませんね。

このセンターには現物と同じ大きさの精巧なディジタル・コピーが、 現物と同じ額縁付きで、37作、年代順に並んでいます。 色彩は制作時のものに近づけるよう補正してあるとか。

福岡伸一によると、経年劣化や過去の修復により、オリジナルから失われたものを 取り戻し、修復でもなく複製でもない知的な提案、「リクリエイト」だそうです。 例えばウィーン美術史美術館所蔵の「絵画芸術」の女性の頭上の月桂冠は 元はウルトラマリンと黄色を混ぜた緑色だったものが、黄色が脱色し青色になって しまっているのを、元の緑色を想定して戻しているといいます。

本物の感動とは別物ですが、フェルメールの全作品が一望でき、 一見の価値はあります。

ヨハネス・フェルメールは17世紀半ば、43年間の生涯のほとんどを 生地オランダ、デルフトでつつましく暮らした画家ですが、死後急速に忘れられ、 190年後にフランス人美術評論家トレ・ビュルガーによる「再発見」論文と、 回顧展により、注目された後は、世界的にファンの多い画家です。

その筆の醸し出す独特の光の質感、計算し尽くされた画面構成、 美しい静寂が支配する画家の世界は、今尚人々を魅了して止まないようです。

生前、同じオランダ生まれのレンブラントのように 華々しく脚光を浴びなかったのは、オランダの地方都市から出なかったことや、 よいスポンサーがついていて、工房も構えず、 一人静かに丹念に描き、寡作だったことも起因しているでしょう。

現存している作品は研究者により意見は異なるものの、 32から37作品しかありません。 つまり少なくとも5作品は真偽に関して意見が割れているという事です。 そのうち35作品は美術館所蔵で2作品は個人蔵。

福岡伸一は全日空の機関紙「翼」に毎月フェルメールに関するエッセーを描くため、 4年に渡って、その37作品中34作品を現地で見て回りました。 私は36作品を現地で見るのに24年かかりました。

福岡は全日空の顎足付きでしょうが、私は自前です。 もっとも最後に認められた1作だけは、会社の出張に助けられましたが。

ちなみに私が現地で観ていない残りの1点は、 アメリカ、プリンストンに住む個人蔵の「聖女プラクセゼス」で1655年作。 日本のフェルメール研究第一人者の小林頼子はこの作を真作と認めていません。

フェルメールの宗教作品はこの作品と、1654-5年に描かれた、 イギリス、エディンバラのスコットランド・ナショナル・ギャラリーにある、 現存第1作の「マリアとマルタの家のキリスト」だけ。 後は風俗画と2点だけの風景画。

フェルメール関しては、珍しい経験をしました。

アメリカのボストンに、「イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館」があります。 ボストン美術館から西に、僅か700m程の場所なのですが、 ボストン美術館に比べると知名度は格段に低いようです。 しかし、ここは知る人ぞ知る名館。

富豪ガードナーの夫人であり、本人も父から莫大な遺産を引き継いだイザベラが、 建築資材や家具・調度品殆ど全てを、イタリアから輸入して、 外見は普通のビルディングながら、一歩中に入ると、美しい中庭のある、 ヴェネツィア・ルネサンス様式の4階建ての美術館を造り上げたのです。 最上階の4階は彼女の生活空間でした。

イザベラがこのアメリカには珍しいヴェネツィアン・スタイルの美術館を 建築した陰には、彼女の過去が大きく関係していました。

昔のアメリカ、その担い手となったイギリスもスノッブな階級社会でした。 イギリスは今でもそうですが。 イザベラの父はいわゆる成金で、 その娘のイザベラは名門のガードナーと結婚したものの、 ボストン社交界は成金の娘に冷たかった。 イザベラは2歳の息子が病死したことも重なり、ノイローゼになってしまいます。

彼女は担架で船に運ばれ、転地療養にヨーロッパに出かけます。 1年半の外国暮らしは彼女を劇的に変えました。 世界の歴史を背負うヨーロッパでの見聞は、 歴史の浅いアメリカとその一都市にしか過ぎないボストンの社交界が いかに卑小なものであるかを彼女に得心させたのです。

怖いものなしになった彼女は、帰国後社交界の女王となり、自宅にサロンを設け、 あらゆる分野で活躍していた人々を招き、様々な話題を論じました。 美術がその大きな一翼を担うのに時間はかかりませんでした。

1883年夫と二人で世界旅行に出かけたイザベラは日本にも3カ月間滞在し、 大の日本好きにもなっています。 ボストン美術館の中国・日本美術部長になる岡倉天心はイザベラのサロンの メンバーでした。

1891年父の莫大な遺産を手にした彼女は美術品を買い漁りました。

やがて昔のボストン社交界に一泡ふかせるべく、 英語の話せない労働者を選んでまで、秘密裏に建設を進め、外見は普通ながら、 内部はヴェネツィアの貴族の館のような華麗な美術館兼自宅を構築。 世間をアッと驚かせたのです。

そこに自分で収集した傑作を展示しました。 ジョット、フラ・アンジェリコ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、 ボッティチェッリ、ラファエロ、ティツィアーノ、ルーベンス、ヴェラスケス、 レンブラント、ヴァン・ダイク、マネ、ドガ、マティス等。

ところでイタリア・ルネサンスの総合的な作品目録をまとめあげた最初の人は リトアニア生まれで、家族がアメリカに移住し、 ボストン近くのケンブリッジにあるハーヴァード大学で学び、その間貧しさゆえに、 イザベラから奨学金を貰っていたバーナード・ベレンソンです。

作品目録を作るのは大変な作業です。ベレンソンはイタリア各地をまわり、 教会や邸宅にある作品を一々誰の作か特定しなければならなかったのです。 世界各地にある美術館も勿論訪れなければなりません。 一つの作品を特定するには確たる論拠が必要です。 資料を漁るだけでも大変な労力です。 しかもイタリア・ルネサンス期の絵画は何千点もあるのです。

しかし、そのおかげでベレンソンはルネサンス美術に関する権威となりました。 イザベラはそのベレンソンに5%の手数料で、絵の買い付けを依頼したのです。 これほど信頼できるパートナーはいません。

1896年、ベレンソンからティツィアーノの名画「ヨーロッパの略奪」が 売りに出たと聞いたイザベラは言い値で買い取ります。 売り手と時間をかけて値を下げさせようとしていたヨーロッパのコレクター達は アメリカ人女性にさらわれたと知って激怒したそうです。

ベレンソンがイザベラに書いた手紙に、 「アメリカは奇跡の国だ。あなたはヨーロッパを手にいれました。」

こうしてイザベラのコレクションは拡充していったのです。 ちなみにルーベンスはこの「ヨーロッパの略奪」を世界中で一番の傑作として、 正確な模写をしていますし、ヴァン・ダイクはルーベンスの模写を模写しています。 かのヴェラスケスやヴァトーもこの絵の画法を参考にしたといいます。

まだベレンソンと契約する前、彼女自身が1892年パリのオークションで買い付けた、 フェルメールの「合奏」がコレクションに含まれていました。 過去形を使ったのは、その「合奏」は1990年3月18日、 レンブラントの2作品を含む、他の12作品と共に盗まれてしまったのです。 22年後の未だに発見されていません。

私が妻子と共に訪館したのが1週間前の1990年3月11日。 僅か1週間後の出来事に驚いたものでした。 もっともそのため、「フェルメールの現存する全作品を現地で観た。」 と言える少数派の一人になっているのですが。

福岡伸一もこの作品と、個人蔵の2作品は観られなかった。



注: ヨーロッパの略奪:

ヨーロッパ(ラテン語ではエウロペ)はギリシャ神話に出てくる フェニキアの王女。
彼女に一目惚れした全能の神ゼウスが白い牡牛に姿を変え、海辺で遊んでいた彼女に近づき、何気なく背に乗った彼女をそのまま連れ去る。 沖へ沖へと泳ぐ牡牛にヨーロッパはしがみついているしかなかった。二人はクレタ島へ泳ぎ着き、そこで暮らす。

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