美術館訪問記-115 レンブラントの家博物館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:レンブラント作
「テュルプ博士の解剖学講義」
オランダ、デン・ハーグ、マウリッツハイス美術館蔵

添付2:フランス・ハルス作
「市営自警団肖像画」アムステルダム国立美術館蔵
全員をほぼ均等に描出した、当時の集団肖像画の一例

添付3:レンブラント作
「夜警」
アムステルダム国立美術館蔵

添付4:レンブラントの家

添付5:寝室

添付6:アトリエ

添付7:アムステルダム光景

オランダ、アムステルダムに「レンブラントの家博物館」があります。

レンブラントが1639年に13000ギルダーで購入し、 1656年に家財もろとも売却せざるを得なくなるまで住んだ家です。

1998年にオランダ国家により往時の状況に修復され、 売却されたレンブラント収集の絵画、彫刻、武具、家具、装飾品等、 事細かにリストされていたものを買い戻して展示してあります。

これらの収集品だけで、チョットした博物館ができる量があります。 レンブラントの異常な収集癖と濫費が思いやられます。

レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)はオランダ、ライデンの生まれで 家業は製粉業でしたが、幼い頃から画才を発揮し、18歳で当時オランダ最高の 歴史画家と言われたビーテル・ラストマンに師事。

半年の修業で独立してライデンに戻り、ほどなく弟子を採り、 それが世界の著名美術館に所有されているヘラルト・ドウだというのですから、 レンブラントは若い頃から余程才能に恵まれていたのでしょう。

父の死後アムステルダムに出た彼は26歳で描いた集団肖像画、 「テュルプ博士の解剖学講義」で名声を確立するのです。

17世紀のオランダは、王族の支配していた諸外国と違い、市民が社会の中心で、 様々な組織のメンバーで集団肖像画を描く事が流行していました。

この画料は均等配分だったので、メンバー全員を同等に扱う記念写真のような ものばかりだった中で、行われた解剖学講義を一つの場面として描き、 テュルプ博士を始めとした登場人物を臨場感溢れる姿で描写しています。

外科医組合の壁面を飾ったこの絵は、驚異的な人気を呼び、 時代の寵児となったレンブラントは、富豪の娘サスキアと結婚。 この豪邸を購入し、得意の絶頂を極めます。

しかし、その彼を奈落の底に落としたのも集団肖像画でした。

それが今では世界の三大名画の一つとも謳われる「夜警」なのです。

レンブラントは市民自警団のメンバーを劇的に配置し、 まるで劇場の一場面のような緊迫した画面を作り上げています。 しかも病弱だった最愛の妻サスキアを亡くし傷心の彼は、 隊のマスコットガールとして、目立つ形でメンバーでもない彼女を加えています。

しかし人気画家レンブラントに、均等に大枚の画料を払う方にしてみれば、 たまったものではありません。

中央でスポットライトを浴びている隊長と副隊長は大満足だったのですが、 その他大勢の扱いで人の影になったり、 顔もろくに描かれていないメンバーは激怒し、 以後レンブラントへの注文は激減したといいます。

浪費癖や愛人との揉め事等もあり、レンブラントは遂に50歳で破産同様になり、 この家も買値より安く手放し、貧民街へ移る事になるのです。

ところで、この家は小さめの鮮やかな緑色の玄関扉のある5階建て。 両側に家の建て込んだ一角にあります。

階段は人一人がやっと通れる異常な狭さです。 唐突ですが、以前行ったヴェトナムの人家を思い出しました。

狭いといえば、寝室に残るベッドも異常に短い。

イギリス、ストラトフォード・アポン・エイヴォンにある シェイクスピアの家のベッドもそうでした。

当時のヨーロッパには横になって寝ると身体に悪いとか、 中にはそのまま目覚めないという迷信もあったらしく、 人々は上半身をベッドの背もたれや壁にあずけて眠ったということです。

壁には絵画が沢山かけられていますが、名の知れた画家のものは少なく、 レンブラントの師のビーテル・ラストマンと数人のレンブラントの弟子達の絵が 目に付いた程度です。

レンブラント本人の絵はユトレヒト美術館の貸与の、 およそレンブラントらしくない1点のみでした。

レンブラントのエッチングは100点程展示されており、 時間を決めて、当時いかにしてエッチングしていたのか、解説していました。

流石にアトリエに一番広い部屋が割り当てられており、鎧4点、槍5点等 絵のモデルに着用させた武具が置かれているのが、印象に残りました。