美術館訪問記-110 レオナルド・ダ・ヴィンチの生家

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:レオナルド・ダ・ヴィンチ生家

添付2:生家からの眺望

添付3:ヴェロッキオ作
「キリストの洗礼」
ウフィッツィ美術館蔵

添付4:「キリストの洗礼」拡大図

添付5:レオナルド・ダ・ヴィンチ作
「岩窟の聖母」
ルーヴル美術館蔵

ルーベンスに対抗し得る画家というと、 晩年フランス王フランソワ1世の庇護を受け、父親同様に遇されたと言う、 万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチでしょうか。

彼は永住の家を持つことなく、パトロンを求めて移動しました。

唯一、彼が生まれて少年期までを過した生家が保存されています。

レオナルドの名称となったイタリア、ヴィンチ村から、 一車線しかない山道を車で5分程登った所に、 1452年生まれの彼の生家が残っているから驚きです。

周囲に人家もなく、3部屋のみの平屋です。天井は高く5mはあるでしょうか。 10cm厚程の木材が屋根裏を支える形で魚骨形に張られており、 その上にレンガが置かれています。

外部に飾り一つない農家の佇まい。 内部には物は何もなく、若い男が一人、番人として座っています。 撮るものとてないのに撮影禁止。

何もない空間を撮らせたくないために番人を置く。 何やら禅問答のような気がしました。

外はオリーブの木以外何もない。 眺望を遮る物とて何一つなく、遠く低い山野が望めるのみ。

このような環境から、如何なる要因がレオナルドのような天才を創り出したのか。

ルーベンス・ハウスとは正反対ともいえる家。

しかし、歴史の重みを感じ、 そこから生まれ出でた人について深く考えさせられたのは、 人工的な物の殆どない「レオナルド・ダ・ヴィンチの生家」の方でした。

レオナルドは公証人を父に、農民の娘を母に持ち生まれました。 父母の間に婚姻関係はなく、レオナルドの誕生後数カ月してそれぞれ別人と結婚。

日本もそうでしたが、当時は庶民には姓はなくレオナルドもその名前しか 与えられていません。ダ・ヴィンチはヴィンチ村生まれのという意味です。

この生家で祖父に育てられ、5歳になって父の家に移ります。 14歳でフィレンツェに出て、彫刻家で画家のヴェロッキオの工房に弟子入り。

先輩弟子にはボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノ等がいました。

ここで彼は広範な分野の理論と実技を学ぶ事になります。 それらは建築、化学、冶金、金属加工、石膏鋳造、皮革加工、大工仕事に及び、 これらにデッサン、絵画、彫刻、モデル作りが加わるのです。

レオナルドが30歳でミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに提出した自薦状には、 橋造り、排水法、城塞破壊、地下道建設、戦車・大砲・火器製造等の軍事技術能力 を列記し、最後に、建築、絵画、彫刻に関しても誰にも負けないとあります。

レオナルドが万能の天才と言われるのは、芸術家・科学者・技術者として どの分野も一流であった事を意味しているのです。

彼が描いた今に残る最初の絵画は、師のヴェロッキオ作の「キリストの洗礼」の 左側の天使と背景で、21歳頃と考えられます。

師の描いた右側の天使が村の子供のように見えるのに対し、 レオナルドの描いた天使はノーブルで神性を備えているように見えます。

根本的な資質の差と言うしかありません。

これまで何度か引用したヴァザーリは、「ヴェロッキオはレオナルドの才に驚愕し 以後二度と筆を取る事はなかった」と記しています。

実情は工房の絵画部門はレオナルドに任せ、 自分は本業の彫刻に専念したという事のようですが。

レオナルドは30歳でミラノに移り、工房を開いて独立します。

17年間の滞在後フィレンツェに戻り、以後ローマとミラノに何度か滞在。 64歳でフランソア1世の招きでフランスに行き、67歳で死去。

現在残るレオナルドの作品は未完のものを入れても22点前後に過ぎません。

それでも彼が人類史上最高の画家と謳われるのは、 その完璧さと気品にあるのでしょう。

彼の絵には粗野で軽薄な所は微塵もなく、深沈として厳粛、憂愁と諦観を含み、 まるで全てを知る賢者の筆になるかのようです。