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美術館訪問記 No.4 ポズナン国立美術館

(* 長野一隆氏メールより。画像クリックで拡大表示されます。)

アーニョロ・ブロンズィーノ作
「コジモ一世の肖像」
ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館蔵

アーニョロ・ブロンズィーノ作
「コジモ一世の肖像」
ウフィツィ美術館蔵

アーニョロ・ブロンズィーノ作
「愛の寓意」
 ナショナル・ギャラリー蔵

ポズナン国立美術館

クエンティン・マセイス作
「三日月上のマリア」

クエンティン・マセイス作
「両替商とその妻」
ルーヴル美術館蔵

クエンティン・マセイス作
「醜い老女」
ナショナル・ギャラリー蔵

ソフォニスバ・アングイッソーラ作
「チェスをする3人の妹達」

前回採り上げたニュー・サウス・ウェールズ州立美術館に、アーニョロ・ブロンズィーノ作「コジモ一世の肖像」があります。

かのメディチ家の当主にしてトスカーナ大公、コジモが金属製の鎧を着け、左半身で右手を左手で持った兜の上に置き、鋭い目で右前方を見つめている上半身像。

当のコジモ一世が基になる建物をヴァザーリに建てさせた、フィレンツェにある、ウフィツィ美術館にも全く同じ絵があります。 大きさが、シドニーの方が86cm x 67cm, フィレンツェの方は74cm x 58cmと縦横方向共少し小さい分、下方部分と右方部分が少し切られていますが、構図は完全に同一に見えます。

イタリアでベッカフーミとブロンズィーノを観た後、オーストラリアに行ったので、地球上で正反対の位置にある二つの国に同じ絵が二つもあることに、不思議な思いをしたことでした。

ブロンズィーノはイギリス、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある「ヴィーナスとキューピットのアレゴリー(愛の寓意)」が有名で、元々関心を持っていましたが、シドニーでの出会いで、一段と好きになりました。

アーニョロ・ブロンズィーノは1503年フィレンツェ近郊の生まれでポントルモに師事しました。本名はアーニョロ・ディ・コジモ。ブロンズィーノはイタリア語のブロンゾ(青銅)からきており、彼の肌が浅黒かったからとか、いつも暗い顔をしていたからとか言われています。

シドニーを訪れた数年後、スペイン、マドリードにあるプラド美術館の斜め向かいにある、ティッセン・ボルネミッサ美術舘を訪れた時、色調が若干異なるものの、全く同一のブロンズィーノのコジモ一世像を発見しました。

アメリカのオハイオ州にあるトレド美術館でも同じものを見つけました。

ポーランドのポズナンにある「ポズナン国立美術館」を訪館した時にも、シドニー、フィレンツェ、トレドと同一配色のブロンズィーノ作「コジモ一世の肖像」を見つけて驚いたものです。一体彼は何作同じ絵を描いたものやら。

そのポズナン美術館では、ドメニコ・ギルランダイオを見出した時にも似た感銘を受けたのです。 これまで巡った幾多の美術館や、目にした画集でも見たことのない、美しい聖母子像が壁にかかっていました。

他の絵が全て綺麗に額装されているのに、この絵だけは額縁もなく、長方形の木板のまま、ワイヤーで吊り下げられている。木板は絵が描かれた中央部分だけを突き出す形で残し、周囲が少し削られてタールで黒く塗られている。その中で浮き上がるように中央部分の背景は月光を現す薄い黄色。

下部に薄くて白い三日月が聖母子を支えるように描かれている。その上に裸の赤子を抱いたマリアの上半身が右を3/4向いた形で乗っている。マリアは何とも言えず、いい色をしたガウンを着ている。あえて言えば、ピンクがかった薄い茜色とでも表現するしかありません。

頭部を布製の飾りで巻き、透明なショールを被っている。顔は雪のように白く、髪は茶色、目も茶色。 幼子キリストはマリアを凝視しているが、マリアは斜め右前方を見つめ、物思いに耽る風です。

現実的で写実的な、瓜実顔をして何国人とも言えぬ普遍的な美しさを湛えています。 このような破格の美しさを持つ絵が、人知れずポーランドの一地方都市に埋もれていたとは。 これだから、美術館は虱潰しに廻らなければいけない。

しかし、作者は一体誰なのかと、プレートを見てもう一度驚きました。なんとクエンティン・マセイス。 パリのルーヴル美術館にある「両替商とその妻」や、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある、一度見たら忘れられない太った醜悪な「醜い老女」などで知られる1465年生まれのフランドルの画家。

風俗画家のイメージのあったマセイスが、かくも清浄な聖母子像を描いていたとは。
この絵を知った後では、彼に対する認識はまるで違ったものになったのです。一度そう認識すると、マセイスの宗教画は実はいろんな所で見かけるのでした。

この美術館には西洋美術史上最初の、本格的な女流画家として有名なソフォニスバ・アングイッソーラの代表作、「チェスをする3人の妹達」もあります。

彼女は北イタリアの貴族の生まれで(1532-1625)、幼少の頃から絵を学び、22歳の時にローマに旅行。 当時ローマにいたミケランジェロが、彼女の画才を認め、2年間彼女の師を勤めました。
ミケランジェロの弟子で、イタリア史上初の芸術家の伝記となった「芸術家列伝」を表した、ヴァザーリも彼女の才能を褒め称えています。

アングイッソーラはその後スペイン宮廷で、エル・グレコを却下したフェリペ2世にも認められ、 王女付きの宮廷画家となり、フェリペ2世の介添えでスペイン貴族と結婚します。2人は当時スペインの支配下にあったイタリア、パレルモに居を構えますが、夫は1年後に死亡。

傷心の彼女は船で実家の北イタリアに戻る途中、乗った船の若い船長に熱烈に求婚され、翌年結婚。時に彼女48歳。余程魅力的な女性だったようです。

フェリペ2世からの寛大な年金と裕福な夫に支えられ、彼女は生涯絵を描き続け、93歳で大往生。当時としては記録的な年齢でした。若きアンソニー・ヴァン・ダイクも彼女に助言を求め、彼女の肖像画を描いています。

女性が画家になる事等考えられなかった当時、その道を切り開いた彼女の偉大さは尊敬に値します。 

Poznan(ポズナン)はポーランドの初代国王ミェシコ1世により王国が築かれた街で、968年から1039年まで首都として栄えた古都。古くから交易の街として栄え、現在もポーランドの代表的な商業都市で、人口約60万人。 ドイツ国境に近い大都市です。

ポーランドを旅して驚いたのは、若い人達が皆英語を話す事でした。市電の切符売り場の人、買い溜めた美術館本を日本に送る取り扱いをしてくれた、郵便局窓口の若い女性、美術館や駅への道を聞いた時に親切に教えてくれた人達。それらの場面を想定して、ポーランド語で用向きを書いたメモを用意していたのですが、全く必要ありませんでした。


注:

フランドルは日本では英語からきたフランダースで知られる地方のことで、現在のオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。 ここでヤン・ファン・エイクが油彩画技法を完成し、その伝統を引き継ぐ画家が輩出した。

ジョルジョ・ヴァザーリ:1511-1574 イタリア、アレッツォ生まれ。

13歳の時にフィレンツェに出て、ミケランジェロや、アンドレア・デル・サルトの下で修行時代を送る。画家として活躍したばかりでなく、建築家としてヴェッキオ宮殿、ウフィツィ宮改装、ウフィツィ宮とピッティ宮を結ぶ通称「ヴァザーリの回廊」と呼ばれる回廊など数々の著名な建築物を手がけている。
彼が1550年出版したいわゆる「芸術家列伝」、正式名、「画家・彫刻家・建築家列伝」はルネサンス期の芸術家、133人の評伝で、美術史の基本資料になっている。(後にヴェネツィア派を中心に30人追加)但し、内容には不確実で、信用できない記述も少なくない。

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