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慶応大学法学部の日本史の入試問題

2017/03/06

2017年2月16日に実施された慶応大学法学部の日本史の問題に囲碁史の問題が出題された。 50年以上囲碁を趣味としてきたのとして、これぐらいは知識として持っていたい。大学入試に囲碁の歴史が取り上げられたことは囲碁ファンとして嬉しい。

それにしても空欄の数字がなぜ2つで1つの語句なのだろうか? 最初読んだときに空欄(25)|(26)に適切な語句を選べ、となっていたので(25)には語句38.聖武天皇とは解ったが、(26)はなんだろうと思った。他の問題も同じでさっぱりわからなくなった。解答をみたら(25)|(26)で1つのこたえという。週刊「碁」にも同じ問題の記事が載っていて、(25)|(26)をA、(27)|(28)をB、...と書き直していた。こちらが常識。

問題
以下の文章と、下線部(ア)から(ウ)に関する文章の空欄 (25)|(26)から (47)|(48) に入る最も 適切な語句を語群より選び、その番号を解答用紙の所定の欄にマークしなさい。

西洋のチェスと比べ、日本で古くから愛好されてきた囲碁や将棋は、より複雑な盤上ゲームとして知られている。その ため、昨年、人工知能と世界トップクラスの囲碁棋士との対決で人工知能が勝利をおさめたことは、衝撃的な事件として 世界中で報じられた。

日本に囲碁が伝来した経緯については諸説あり、定説は存在しない。しかし、(25)|(26)の没後、その皇后 であった人物により東大寺に献納されたという御物の中に、碁盤(木画紫壇棊局・もくがしたんのききょく)が収蔵されていることから、遅く とも8世紀中頃には伝えられていたと考えられる。古くから信じられてきた説は、(ァ)717年に使節として中国に渡った (27)|(28)が、帰国の際に日本に囲碁を伝えたというものである。現在では、それ以前に既に伝わっていた という見解も有力だが、 (27)|(28)が中国から多数の典籍を持ち帰り、当時の最新の兵法などの学問を日本に 伝えた学者であること、また、後に右大臣にのぼるなど政治的にも大きな力を持った人物であったことから、上述の説が 伝説化したのであろう。(27)|(28)が中国に渡った際の説話を描いた12世紀後半の絵巻の中にも、囲碁勝負にまつわる説話が描かれている。

囲碁が貴族の間で広くたしなまれていたことは、 (イ) 一条天皇の内裏に仕えた女房が書いた長編物語の中に、囲碁にかかわる場面がみられることからもわかる。時代が下るにつれて、囲碁は、武士や僧侶、町衆の間でも広まった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国武将も囲碁を愛好していたといわれており、当時の囲碁の名手の中には扶持を与えられる者も現れた。豊臣政権下の五奉行の1人に数えられ、1600年の合戦では東軍に属したことで知られる(29)|(30) は、徳川家康の囲碁の好敵手であったといわれている。

江戸時代には、将軍の御前で行われる御城碁の運営や囲碁界の統括などの職務を行う碁所が設けられた。初代の碁所は、はじめは将棋所も兼務していたが、将棋所の地位は、その後、将棋を専門とする者に譲られた。碁所および 将棋所は、(ゥ)(31)|(32) の管轄下に置かれた。碁所の地位をめぐっては、囲碁家元4家(本因坊家、安井家. 井上家、林家)の間で激しい勝負が繰り広げられた。江戸時代の高名な囲碁棋士の1人であった(33) (34) は、日本における暦学の創始者としても有名である。(33)|(34)は、平安時代より使用されていた唐由来の(35)|(36)暦の誤りを修正し、はじめての国産の暦を編修した。

明治期以降の政治家や文人の中にも、囲碁にかかわる逸話を持つ者が多くみられる。たとえば、後に内務卿として明治政府の中心人物となる(37)|(38)は、ある藩の下級藩士だったころ、勤王思想に基づく改革を求める訴えを、当時の同藩の事実上の最高権力者であった(39)|(40)に伝達する機会を得るために、囲碁を利用したといわれ ている。(39)|(40)は、藩を挙げて勤王の立場をとることとし、1862年には藩兵とともに上洛し、勅使・大原重徳を擁して江戸に下り、幕政改革を求める行動に出た。その結果、参勤交代制の緩和や西洋式軍制の採用などの改革が行われた。

大正期から雑誌記者として日本の対外膨張主義を批判する多数の論稿を著し、第2次世界大戦後は政治家として活躍し、内閣総理大臣も務めた(41)|(42)は、人間の天分に関する随想の中で囲碁について触れている。その中で、 鳩山一郎が母親の方針で若いころに囲碁を学び、アマチュアの高段者になったというエピソードを紹介している。

文人では、太宰治らとともに無頼派と呼ばれる作家として活躍し、「白痴」などの作品を書いた(43)|(44)が 愛好家として有名である。(43)|(44) は、戦争の影響で解散を余儀なくされた文人同士の囲碁サークルを振り返る文章の中で、「僕は物にタンデキする性分だが碁のタンデキは(中略)深刻で、碁と手を切るのに甚大な苦労をしたものだ」と述べるほど囲碁好きであった。(43)|(44) は将棋の愛好家でもあり、囲碁および将棋に関するいくつもの随筆や観戦記を遺している。

〔設問〕
(ア)このときに中国に渡った使節の中には、様々な事情から、帰国を果たせなかった者もいる。たとえば、(45)|(46) は、帰国船が海難に遭ったことから帰国を断念し、中国に留まった。(45)|(46)の作である望郷の歌は、醍醐天皇の勅により編纂された和歌集におさめられている。
(イ)であったことから、特に武家社会の時代になってからは、漢学や儒学の立場から、作品の性格が好色的だとする批判もなされた。これに対し、医者であり国学者でもあった(47)|(48) は、この作品に関する注釈書を著し、「もののあはれ」という考え方からこの作品の文学的価値を高く評価した。
(ウ) (31)|(32) の職務の範囲は広く、その主たる職務に加え、楽人、連歌師、陰陽師、碁所、将棋所といった遊芸にかかわる者たちの管理や、遠方の諸国私領の訴訟処理なども担当した。(31)|(32)は、1635年に創設され、将軍直属の役職にもなり、原則として譜代大名の中から任命された。

[語群]
01.浅野長政02.芦田均03.安部公房04.阿倍仲麻呂05.石川淳
06.石橋湛山07.犬上御田鍬08.井上円了09.井伏鱷二10.大久保利通
11.大伴旅人12.大橘宗桂13.大目付14.荷田春満15.片山哲
16.賀茂真淵17.川端康成18.勘定奉行19.寬政20.岸信介
21.北村季吟22.木戸孝允23.吉備真備24.久世広周25.元正天皇
26.玄防27.元明天皇28.光仁天皇29.小西行長30.小早川秀秋
31.西郷隆盛32.坂口安吾33.寺社奉行34.島津斉彬35.島津久光
36.授時37.真享38.聖武天皇39.管原道真40.井真成
41.宣明42.高杉晋作43.橘諸兄44.天保45.永井荷風
46.中岡慎太郎47.野間宏48.塙保己一49.林春斎50.評定衆
51.藤原清河52.藤原伸麻呂53.藤原広嗣54.宝暦55.本因坊算砂
56.前田利家57.増田田長盛58.町奉行59.松平容保60.松平慶永
61.三木武夫62.本居宣長63.文武天皇64.安井算哲65.吉田茂



解答
(25)|(26) 38 (聖武天皇)(27)|(28) 23 (吉備真備)(29)|(30) 01 (浅野長政)
(31)|(32) 33 (寺社奉行)(33)|(34) 64 (安井算哲)(35)|(36) 41 (宣明)
(37)|(38) 10 (大久保利通)(39)|(40) 35 (島津久光)(41)|(42) 06 (石橋湛山)
(43)|(44) 32 (坂口安吾)(45)|(46) 04 (阿倍仲麻呂)(47)|(48) 62 (本居宣長)

週刊「碁」にもこの問題が掲載された。(25)|(26)をA、(27)|(28)をB、...と変えてある。

週刊「碁」解答


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