戻る

美術館訪問記-94 サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会正面

添付2:サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会内部

添付3:ラファエロ作
「キリストの変容」
ヴァティカン美術館蔵

添付4:ブラマンテ作
テンピエット

添付5:ピオンボ作
「鞭打ち」

添付6:ピオンボ作
「賢い処女としての若い女性の肖像」
ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵

添付7:ヴァザーリ作
「聖パウロの改宗」

添付8:ヴァザーリ作
「聖パウロの改宗」
拡大図、左端がヴァザーリ 

前回名前の出た「サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会」は ローマ、トラステヴェレ地区のジャニコロの丘にあり、 9世紀頃に建てられたものを、15世紀後半にスペイン王フェルナンド2世と 王妃イザベラの出資によって建て直された教会です。

この時、この場所は、ローマ教皇から二人に与えられたカトリック両王の権限で、 聖ペテロ(イタリア語でサンピエトロ)が十字架に架けられた所と定められています。

ジャニコロの丘への坂道を登ってこの教会の前に来ると、視界が一挙に開け ローマの街並みが一望できます。

ルネサンス期の建物らしいシンプルなファサードが清々しい。

中に入ると端正な外観とは異なり、壁や天井にビッシリと装飾が施されています。

ここの主祭壇には、今ではヴァティカン美術館の至宝になっている、 ラファエロが死の直前に描いた傑作、「キリストの変容」が飾られていたのです。

しかし1797年、ナポレオン軍がフランスに持ち帰ってしまい、 1815年、この教会にではなく、ヴァティカン教皇に返還されたのでした。 イタリアが国として統一されるのは、1861年の事だったのも一因でしょう。

代わりに、グイド・レーニの「聖ペテロの磔刑」のカムッチーニによる模写が 飾られています。真作はやはりヴァティカン美術館にあるのでした。

回廊のある中庭に、ブラマンテ作のテンピエットがあります。

まことに優雅で、珠玉の名作と惚れ惚れと眺めたのですが、 落ち着いて見渡すと、中庭を完全に占領し、周囲との調和は全くありません。

例えは妙ですが、まるでUFOが降り立ったような違和感を覚えました。

ここには幾つもの礼拝堂があり、それぞれの礼拝堂に祭壇画や天井画があります。

右側の1番目の礼拝堂には、セバスティアーノ・デル・ピオンボの「鞭打ち」と 「キリストの変容」がありました。

ヴァザーリの芸術家列伝によると、これらの作品は、 ピオンボの友人だったミケランジェロが提供した原画に基づいているといいます。

遅筆家だったピオンボは、原画がありながら、 この2作を完成するのに6年もかかったのだとか。

ピオンボ(1485-1547)は興味ある経歴の持ち主です。 本名、セバスティアーノ・ルチアーニ。

彼はヴェネツィアでティツィアーノと同じ年に生まれていますが、 音楽家を志し、リュートの名手として知られました。

ほどなく、画家になる決心をし、ベッリーニとジョルジョーネの下で学び、 ヴェネツィア派の華麗な色彩を身につけます。

1511年にはローマに移り住み、ラファエロの傍らで仕事をし、 ミケランジェロとも親しくなるのです。

1531年、教皇の印璽官という、教皇書簡に鉛の印璽を押す、 名誉職ですが実入りのよい職を手にします。

この鉛をイタリア語でピオンボと言い、これが彼の通称になりました。

サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会には、 ヴァザーリの「聖パウロの改宗」もありました。

教会内の祭壇画を撮っていると、教会の人から、 写真を撮るなら喜捨をしてくれませんかと言われ、心持を喜捨すると 写真が撮り易いようにいろんな場所に点灯してくれました。 とはいえ、暗かった堂内が仄明るくなった程度ですが。

改めて写真を撮っているとヴァザーリの祭壇画について、 左端にいる人物がヴァザーリその人だ、と教えてくれました。

またベルリーニの設計した礼拝堂がある事も教えてくれ、 日本人かと聞くので、そうだと答えると、 「2週間前に台湾に行って来た。しかし台風が来るというので慌てて帰ってきた。」と言うのです。

出る時、感謝の言葉を述べると、日本語で「アリガトウ」と返してくれました。

美術館訪問記 No.95 はこちら

戻る