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美術館訪問記 - 568 バーリ県立絵画館、Bari

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:バーリ県立絵画館のあるバーリ県庁舎正面

添付2:バーリ県立絵画館内部

添付3:アントニオ・ヴィヴァリーニ作
「聖母子」

添付4:アントニオ・ヴィヴァリーニ作
「聖ウルスラの多翼祭壇画」
1440年頃、ブレシア、司教美術館蔵

添付5:アントニオ・ヴィヴァリーニ、ジョヴァンニ・ダレマーニャ共作
三連祭壇画「聖母子と聖人たち」
ヴェネツィア、アカデミア美術館蔵

添付6:ティントレット作
「ペスト患者といる聖ロッコの前に出現したキリスト」

添付7:パリス・ボルドン作
「パドヴァの聖アントニオとウプスラの聖へンリクの間の聖母子」

添付8:モランディ作
「通り道」

添付9:ジョヴァンニ・ベッリーニ作
「ヴェローナの聖ペテロ」

添付10:バーリ県立絵画館前から見たバーリ旧市街

次の都市はバーリ。長靴のような形状のイタリアの踵にあたる部分にあるイタリア南部最大の都市で人口32万人余り。

アドリア海に面した港湾都市であり、東地中海の国々と広範囲な貿易をおこなう商工業の一大中心地です。

この町の海岸通りは、北側フェリー港から旧市街に沿って南へと伸びており、1927年ムッソリーニ政権時代に軍事目的で拡張された南北約9キロの道路で、軍事や警察関係の重厚な建物も立ち並んでいます。

その並びにある県庁舎の 4階に入居しているのが「バーリ県立絵画館」。

1フロアだけですが結構広い。ベッリーニと並びヴェネツィア絵画の一派をなしたヴィヴァリーニ一族の始祖、アントニオ・ヴィヴァリーニの作品が目に留まりました。

ヴィヴァリーニ一族の名前は何度か出しましたが、まだ説明していませんでした。

開祖のアントニオ・ヴィヴァリーニは1418年頃、ヴェネツィア、ムラーノ島のガラス製品製造業の家に生まれ、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの影響下で絵画修業をし、金色を用いた華麗な装飾性に富む国際ゴシック様式に3次元的要素を加えた明瞭な色調や温雅な線描とで一家を成しました。

1441年頃からは義弟ジョヴァンニ・ダレマーニャと組んでムラーノ派と呼ばれた大規模な工房を構え、ムラーノ島を拠点にパトヴァ、ボローニャ、ヴェネツィア等で精力的に活動を行います。

特にヴェネツィアのアカデミア美術館にある二人が手掛けた三連祭壇画は1446年という当時のヴェネツィアでは異色の立体感で評判を呼びました。

1450年ダレマーニャが急死すると、実弟バルトロメオ・ヴィヴァリーニや、息子アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニと共同で作品を手がけています。

彼が亡くなった年は明確でなく、1476年と1484年の2説があります。

他にもヴェロネーゼやティントレット、パリス・ボルドンの良品がありました。キリコ、モランディ、デ・ピシス等の日本でもおなじみの近代画家達の作品もあり、見応えのある絵画館です。

観終わってもある筈のジョヴァンニ・ベッリーニの作品が見当たらなかったのでスタッフに聞くと、自動ドアで仕切られた特別展示室内に展示されているのでした。

引き返してみると確かにありました。不透明な扉なので、その中に展示室があるとは気が付かなかったのです。

ジョヴァンニ・ベッリーニでは初めて観る、頭を剣で割られ、胸を短剣で突き刺されたまま右手にバイブル、左手に棕櫚の枝を持って平然と立つヴェローナの聖ペテロ(別名殉教者聖ペテロ)を画面一杯に描いた縦長の作品です。

ヴェローナの聖ペテロは実在した聖人で、イタリアのヴェローナ出身。ドミニコ会の説教師で、説教においてはカタリ派など異端を攻撃するのが常でした。

その結果ミラノのカタリ派の怒りを買い、1252年にコモからミラノへの旅の途上刺客に襲われ、胸にナイフを、上頭部には鉈の一撃を受け殉教します。死に際して「私は神を信じます」と血文字で書きながら息絶えたとされています。

聖ペテロは死後11か月という最短記録で列聖されました。

絵画館は海に面していて、出ると、前の通りからバーリの旧市街方面が遠望できました。

なおこの絵画館は撮影禁止で、館内の写真はWebから借用しました。

イタリアは欧米諸国の中では撮影禁止の場所が多い国でしたが、ローマやミラノなどの主要都市では2010年頃から軒並み撮影可になっています。中心から離れたバーリが撮影可になるのには時間がかかるのでしょう。