戻る

美術館訪問記 - 438 井原市立田中美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:井原市立田中美術館正面

前回の福山市から10kmも北東に行くと岡山県井原市があります。

井原市役所と並んであるのが「井原市立田中美術館」。

1983年、市制30周年を記念して新築された新館で、鉄筋コンクリートの4階建て。 元は井原市出身(当時は西江原村)の平櫛田中の作品65点を保存するために、 「田中館」として1969年、平櫛田中97歳の生存中に開館しています。

日本の近代彫刻の巨人、平櫛田中は1872年、この地に田中倬太郎として誕生。 10歳で現在の福山市在住の平櫛家に養子に行き、 この二つの姓を組み合わせて平櫛田中と号しています。

青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をした後、 上京して高村光雲の門下生となりました。その後、美術界の指導者・岡倉天心や 臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした 精神性の強い作品を制作します。

1958年に22年の歳月をかけて完成し、国立劇場正面に置いてある「鏡獅子」に 田中芸術の集大成を見ることができます。 1962年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章しました。

鏡獅子は歌舞伎舞踊「春興鏡獅子」の略称。 六代目尾上菊五郎によって、絢爛たる出し物に完成されました。

1936年、歌舞伎座に鏡獅子がかかった時、田中は25日間通い続け、 たえず場所を変えて観察し、六代目と相談してこのポーズを決めたといいます。

美術館玄関前に金色に光り輝く釣竿を右手に持つ、 等身大の「五浦釣人」像が置いてありました。

五浦(茨城県北茨城市)の海岸で、釣りにでかける岡倉天心を撮影した 写真をもとに田中が制作したもの。

天心は五浦で、日本画の下村観山・横山大観・菱田春草・木村武山などを 指導する一方、暇をみては釣りを楽しんでいたそうです。

入口を入ると浜田泰三作、61歳時の「平櫛田中翁像」や平櫛田中作の 「鏡獅子・石膏原型」、ブロンズ像「霊亀随」が置いてある小コーナーがありました。

撮影可能なのはここまでで、彫刻作品の美術館には珍しく館内は撮影禁止。 従って添付写真の幾つかはGoogle 画像から拝借しました。

館内には田中の多彩な彫刻群がありましたが、中に「鏡獅子」の一連の試作が 展示されていました。その最初の試作は1938年の院展に出品された 「鏡獅子試作裸像」で、六代目の裸の姿でした。

完成した「鏡獅子」は国が2億円で買い取ることを申し出ましたが、 作品は六代目とともに作り上げたものであるとして田中は売却を断り、 国立近代美術館に寄贈されることとなり、 現在国立劇場正面ホールにあるのはそこから貸与されているのだそうです。

展示室としては最上階の3階には、田中が数々の名作をつくり出した 東京上野桜木町のアトリエを再現し、当時の面影を偲ばせています。

このアトリエは、田中がそれまでのアトリエが手狭になり、 大作を作る場所がなく困っていると、同じ日本美術院同人の横山大観・下村観山・ 木村武山が「平櫛さん、アトリエを作る費用はなんとかするから、 良い作品を作ってください」と言って自分たちの絵を売り、 それを資金にアトリエを建ててくれたのだという。

再現されたアトリエは総檜造りですが、この檜は田中が100歳の誕生日に 約30年分の木材を買い込み、107歳の死亡時に使用されずに残っていたものを 利用したのだとか。

私淑した岡倉天心、西山禾山の影響もあってか、飄々とした作品の多い中、 思わず頬が緩むあどけない幼児の彫刻「幼児狗張子」がありました。

モデルは田中の次男で、狗張子を持って遊んでいた次男が、何かを求めて 手を伸ばしている様子を活写しています。

この像が美術館パンフレットの表紙を飾っていましたが、 田中の自然な一面を物語るものでもあるのでしょう。

館内には田中の諸作品だけでなく   「いまやらねばいつできるわしがやらねばたれがやる」 「六十七十ははなたれこぞうおとこざかりは百から百から」などの 彼の手になる雄渾な書も展示されており、田中の心意気を感じさせるものでした。

(添付2:平櫛田中作「鏡獅子」、添付3:平櫛田中作「五浦釣人」、添付4:浜田泰三作「平櫛田中翁像」、添付5:平櫛田中作「鏡獅子試作裸像」、添付6:平櫛田中作「活人箭」、添付7:平櫛田中作「尋牛」、添付8:平櫛田中作「気楽坊」、添付9:平櫛田中作「幼児狗張子」および 添付10:平櫛田中直筆書  は著作権上の理由により割愛しました。
 長野さんから直接メール配信を希望される方は、トップページ右上の「メール配信登録」をご利用下さい。

 田中美術館サイトから作品をご覧ください。 田中美術館サイト  (管理人) )