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美術館訪問記 - 426 バララット美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:バララット美術館正面

添付2:バララット美術館内部

添付3:オイゲン・フォン・ゲラール作
「1853-54年夏のバララット」

添付4:オイゲン・フォン・ゲラール作
「山火事」

添付5:フレデリック・マッカビン作
「開拓者」
ヴィクトリア国立美術館蔵

添付6:フレデリック・マッカビン作
「手紙」

添付7:トム・ロバーツ作
「夏の朝の諍い」

添付8:トム・ロバーツ作
「炭焼き人」

添付9:トム・ロバーツ作
「アダージョ」
ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館蔵

メルボルンとアデレードの中間、メルボルン寄りの場所にバララットがあります。 アボリジニの言葉で休憩所を意味するそうです。

人口は10万人余り。1851年に金鉱が発見され繁栄しましたが、 19世紀末には金も出なくなり、その後は内陸の商業都市として命脈を保っています。

町並みには金で潤った人々の建てた、豪壮なヴィクトリア朝形式の建物が残り、 これらの歴史的建造物はオーストラリア国宝に指定されています。

その街中の大通りに面して建つのが「バララット美術館」。

1884年開館のオーストラリアの地方美術館としては最古、最大の美術館と いうことでしたが、オーストラリア美術に特化しており、 植民地時代から現代までの豪州美術の推移を知ることができました。

これまで参照したオーストラリアの美術館で観て来た、 オーストラリア人画家たちの作品が数多くありました。その中から、 まだ触れてなかった数人のオーストラリア人画家達を採り上げてみましょう。

先ずはオイゲン・フォン・ゲラール。 一攫千金を夢見て1852年、ここバララットにやって来た画家です。 この年末までに9万人もの人が金目当てに世界中から集まったといいます。

1811年、オーストリア、ウィーンの生まれで、細密画の宮廷画家だった父と共に ローマや、ナポリ、デュッセルドルフなどを巡りながら風景画家となります。

自身の金採掘は不発でしたが、画家らしい画家のいなかったオーストラリアで 英仏伊独語を自由に話せる画家として、世界中からやって来た、 金で当てた人や二次的に豊かになった人々を顧客に、第一人者となって行きます。

父譲りの細密描写と壮大で詩情豊かな彼の風景画への評価は高まり、 1870年には、メルボルンの国立芸術学校で絵画部門の最初の責任者に就任し、 ヴィクトリア国立美術館の館長も勤めています。

70歳を機に職を退いた彼は1882年、ヨーロッパに戻り、1901年ロンドンで没。

ゲラールの下で学びオーストラリアを代表する画家になった二人がいます。

一人はフレデリック・マッカビン。1855年メルボルンのパン屋の生まれで、 家業を手伝いながら国立芸術学校で学び、1883年には国立芸術学校学生企画展で 最優秀賞を受賞。1888年には国立芸術学校教授となり、後に学長に就任。

1991年に発表した「開拓者」は彼の代表作と見做されています。

彼はオーストラリアのブッシュ(叢林)を好んで描き、水平線や開放的空間が ほとんどない風景の中で、生活する人々を英雄視して描いています。

バララット美術館に展示されていた「手紙」は、美術学校の生徒でもあった 妹のハリエットをモデルに描いたもの。

1917年、心臓麻痺で死亡。

もう一人はトム・ロバーツ。1856年イギリスで生まれ、1869年両親と オーストラリアに移住。写真技師助手として貧しい家計の手助けをしながら、 国立芸術学校で学び、フレデリック・マッカビンと親交を結びます。

1881年イギリスを経て、フランスに渡って印象派の影響を強く受け、 1885年に帰国後、メルボルン近くのハイデルバーグに、マッカビンらと共同で 美術村を作り、印象主義の手法を土着化し、ハイデルバーグ派と呼ばれます。

彼らは、1880年代末に、戸外主義的印象派の作品を次々と発表し、 後のオーストラリアの画家たちに強い影響を与えました。 彼らの絵画では、オーストラリアの景観の独自性を描くことに力点が置かれ、 オーストラリアらしい生活を強調するような主題が好まれました。

添付の「夏の朝の諍い」はマッカビンの妹のハリエットをモデルにしたもの。

トム・ロバーツは肖像画家としても著名で、第1回オーストラリア連邦議会の 開会式典背景の制作依頼を受け、250人以上の肖像を描いたりもしています。 1931年没。