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美術館訪問記 - 405  司教区博物館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ヴィチェンツァ市中心部

添付2:パッラーディオ設計「バジリカ」

添付3:バジリカ2階回廊

添付4:パッラーディオ設計「ヴィチェンツァ大聖堂」

添付5:司教区博物館正面

添付6:バルトロメオ・モンターニャ作
「玉座の聖母子と聖人達」

添付7:モンターニャ作
「聖母子」
リヴァプール、ウォーカー美術館蔵

添付8:パリス・ボルドン帰属「祝福するキリスト」

ヴィチェンツァは、「パッラーディオの町」という異名を持つ、 人口11万人余りの小都市で、ルネサンス期の優れた建築家 アンドレア・パッラーディオが手がけた美しい町並みで知られています。

パッラーディオは、1508年、パドヴァの粉屋の息子として生まれ、 本名アンドレア・ディ・ピエトロ・ダッラ・ゴンドーラ。

20代で石工工房の親方になり、30歳で人文学者ジャン・ジョルジョ・トリッシーノ が手掛けていたヴィッラの修復に雇われたのが彼の転機となりました。

トリッシーノはアンドレアに建築家としての才能を見出し、 そのころ古典研究が始まったローマに彼を連れて行って、 古典主義思想とローマ時代の建築について手ほどきし、 同時に数学、音楽、ラテン文学などについても薫陶を与えたのでした。

建築家として、パッラーディオという名前を与えたのもトリッシーノでした。

1546年、ローマから帰国した彼は、ヴィチェンツァで予てから懸案となっており、 公募されていたバジリカ(市の役場兼公会堂)の改修案を市に提出。

この案はヤーコポ・サンソヴィーノやジュリオ・ロマーノなどの 既に名声を確立していた建築家の案を圧倒的大差で退けて当選したのです。 パッラーディオの堂々たる古典主義のスタイルが審査員の心を捉えたのでした。

シニョーリ広場には、このバジリカが今も堂々と聳え立っています。 青緑色の巨大な屋根と白い大理石の軽やかなファサードに彩られ、半円アーチの 支点に2本の細い円柱を配し,円形の窓を開け,繊細さを生み出しています。

以後は次から次へと仕事が舞い込み、パッラーディオは大建築家となって行きます。

彼のスタイルはヴェネト地方に留まらずヨーロッパ、特にイギリスに受け入れられ、 イギリス経由でアメリカにも影響を与えました。

イギリスやドイツ、フランス、アメリカの図書館や美術館、裁判所等の切り妻屋根、 三角破風、列柱などの新古典主義スタイルの源流を作ったのは、 パッラーディオであると言っても過言ではないでしょう。

文明開化の明治期の日本建築にもその影響を見ることができます。

後にゲーテがイタリア周遊の際、パッラーディオ建築に心酔し、 「これ以上に高尚なもの、これ以上に完全なものを私はついに見たことがなかった。 この偉大な芸術家は生まれながらにして偉大なもの、快適なものに対する 内的感覚を具備していた」と褒め称えています。

パッラーディオは、職業建築家として史上最初の人物であり、 他の芸術活動には携わりませんでした。

パッラーディオは1580年に亡くなりますが、生涯のほとんどを過ごした ヴィチェンツァ市内には,彼が設計した建築が多く残っています。

その一つ、パッラーディオがクーポラを設計したヴィチェンツァ大聖堂の 斜め前にあるのが「司教区博物館」。 

12世紀末に建てられた司教館を第二次大戦後修復した館に ヴィチェンツァ地区の教会にあった美術品や歴史的文献を集めて2005年に開館。

聖具、聖職者の衣裳、ローマ時代の彫刻、遺構、宗教画などが展示されている中で、 バルトロメオ・モンターニャの出来の良い、460 x 240cmという大型の祭壇画 「玉座の聖母子と聖人達」が目を惹きました。

バルトロメオ・モンターニャは1450年頃の生まれで、ヴィチェンツァから 1469年、ヴェネツィアに出てジョヴァンニ・ベッリーニの下で修業し、 1475年、ヴィチェンツァに戻って活躍したという記録が残っています。

1523年、ヴィチェンツァで死亡。 息子のベネデット・モンターニャが跡を継いで画家になっています。

バルトロメオ・モンターニャの作品は欧米の多くの美術館で見かけます。

他にはパリス・ボルドンに帰属される絵以外にはたいしたものはありません。