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美術館訪問記-323 国立フェルナン・レジェ美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:国立フェルナン・レジェ美術館内展示のレジェの写真

添付2:国立フェルナン・レジェ美術館、駐車場側

添付3:国立フェルナン・レジェ美術館入口途中の看板

添付4:国立フェルナン・レジェ美術館内部

添付5:フェルナン・レジェ作
「伯父の肖像」1905年

添付6:フェルナン・レジェ作
「形態の対比」1913年

添付7:フェルナン・レジェ作
「女性たち」 1921年

添付8:フェルナン・レジェ作
「建設者達」 1950年

前回触れたフェルナン・レジェの個人美術館が 南仏ニースの西、ビオットにあります。それが「国立フェルナン・レジェ美術館」。

フェルナン・レジェは1881年、フランス、ノルマンディー地方の畜産農家の生まれ。 ピカソとは同年生まれになります。

ピカソ同様1900年にパリに出て、国立美術学校を受験しますが失敗。 製図の仕事をしながら、私塾の美術学校、アカデミー・ジュリアンに通います。

印象派風の風景画、人物画などを描いていましたが、 1907年開催のセザンヌの回顧展を訪れて深い感銘を受けます。 この年ピカソはキュビスムの端緒となる「アビニヨンの娘たち」を発表します。

1908年、パリ、モンパルナスの共同住宅兼アトリエ「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)に 住みつき、シャガールやモディリアーニ、スーティン、ピカソらと知り合います。

ラ・リュッシュは、一時はロダンよりも注文の多かったこともある彫刻家 アルフレッド・ブーシェが、みじめだった自分の修業時代のつらい経験から、 若い芸術家たちが安く住める施設をと造った施設で、140もの部屋とアトリエを ただ同然に貸したので、売れない芸術家が続々と集まったのです。

レジェ自身も、生活の安定を得た後は、恩返しをするかのように、 自分で画塾を開き、アトリエやモデルを提供し、若い芸術家達を教え続けました。

レジェはやがてピカソの画商であったカーンワイラーに認められ、 1912年に彼の画廊で初の個展を開催。

1914年から足掛け4年間第一次世界大戦に参加。 大砲などの機械の美しさを強く認識し、1920年には建築家ル・コルビジュエと 出会い、コルビジュエの建築の壁画を担当するようになります。 舞台芸術や、ステンドグラス、彫刻などにも手を広げていきました。

1940年には、第二次世界大戦の戦火を避け渡米し、 そこでアメリカの先進性と明るい風俗にふれ、 グラフィックで簡潔、明るい色彩の独自のスタイルを生み出して行くのです。

1945年帰国し、太陽の明るく降り注ぐ南仏を愛したレジェは、 1950年ビオットにアトリエを建てます。

1952年、当時71歳のレジェは、 弟子でロシア出身の画家であるナディアと再婚しましたが、1955年死去。

ナディア未亡人が建てたのがこの美術館。

開館式は画家仲間だったブラック、ピカソ、シャガールが主宰し、 当時のフランス文化相・アンドレ・マルローも列席しました。 絵画のほかに、モザイク、陶磁器など 半世紀に渡って創作された多くの作品を展示しています。1960年開館。

駐車場に面するガラス張りの近代的な美術館の壁一面を覆う、 レジェの巨大な抽象作品3点がまず人目を惹きます。

そこから外周を周って前庭の端を通り、前面の入口から入るようになっています。 このアプローチの途中や庭、建物の前面にもレジェのモザイク画や、彫刻、 オブジェが展示されています。

入口から展示室へ向かう踊り場にレジェの写真や年表が展示され、 壁には画家自筆で「絵画は感傷的な表現や叙述によってではなく、 それ自体の美を追求するべきだ」とありました。

展示室には彼の作品が時代に沿って展示されており、 画風の変化を目の当たりにできます。

1905年作の印象派風の肖像画や風景画が3点。1912年以降のセザンヌに強く 感化された色彩豊かなキュビスム絵画が21点。

1921年からは太い輪郭線と単純なフォルム、明快な色彩で構成される 簡潔な人物像のある絵画が交じって来ます。これが13点。

この他にも彫刻やレリーフ、オブジェが9点、展示されていました。 所々にレジェの制作風景等の写真もあります。

1967年、美術館は348点のコレクションもろともフランス国家に寄贈され、 国立美術館となったのです。