美術館訪問記-239 ジュール・シェレ美術館 

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ジュール・シェレのポスターの前のシュレとロートレック

添付2:ジュール・シェレのポスター
「ムーラン・ルージュの舞踏会」1989年

添付3:ジュール・シェレ作
「車傍のエレガントな婦人」

添付4:ジュール・シェレ美術館外観

添付5:ジュール・シェレ美術館内部

添付6:デュフィ作
「カジノ前の2台の馬車」

添付8:ボナール作
「ベルノンの窓外からのセーヌの眺め」

ロートレック以前にはパリの街にポスターは貼り出されていなかったのか?

実は世界初のポスターはロートレックが「ムーラン・ルージュ」を作成する 33年前、1858年にパリの街角に出現したのです。

作成したのはジュール・シェレ。 パリの劇場にかかった「地獄のオルフェ」というオペレッタの宣伝のためでした。

この時点ではそれ程の注目は集めませんでしたが、1870年代初には この新しいメディアは人々の関心を惹きつけ、シェレの工房には注文が殺到。

シェレは生涯1000点以上のポスターを制作したと言われます。

陽気に優雅に踊る女性を中心に据えた彼のポスターを目にされた事もあるでしょう。

フランスの街角がシェレの展示会場の観を呈するありさまとなり、 1881年には設置場所やサイズを規制するポスター法が制定される事になりました。

ジュール・シェレは1836年パリの貧しい職人の家に生まれます。 13歳でリトグラフ職人の弟子になり、3年後には絵画に興味を持ち 国立デザイン学校の夜間部に通いながら、パリの美術館を巡りました。

最初のポスターを制作した後、23歳でロンドンに渡り、 7年間カラー石版印刷技術を磨いてパリに戻り、1866年工房を開設します。

その後の目覚ましい活躍で「ポスターの父」と呼ばれるようになったシェレは 1890年、レジオンドヌール勲章を受章。 その後は絵画も多く手がけています。

功成り名遂げた彼は南仏ニースに移り住んで1932年にその生涯を終えています。

そのニースに彼の名を冠した「ジュール・シェレ美術館」があります。

美術館はルネサンス風の邸宅で、1878年に、ウクライナの王女 エリザベス・コチューベイのために建造されたもので、コート・ダジュールに残る ベル・エポックを象徴する最も美しい建物の一つといわれます。

後にニース市の所有となり、市立美術館として1928年開館。

シェレのパステル画76点、ポスター19点を含め総数125点もの ジュール・シェレ・コレクションがあります。

またこの美術館はニース近辺に滞在した芸術家の作品を多く所蔵しており、 中でもデュフィの作品数は、総数で言えば圧倒的に世界一のコレクションでしょう。

油彩28点、水彩15点、グアッシュ14点、デッサン87点、木版画、 陶器等を含めると総数157点を所有しているのです。 油彩画の内、25点はデュフィ未亡人からの指名寄贈です。

またこの美術館の館長も務めた、 ギュスターヴ・アドルフ・モッサの怪奇と退廃に満ちた絵画も45点もあります。

つまり、この美術館はシェレ、デュフィ、モッサ、3人の画家の 世界最高のコレクションを保持しているのです。

最初に訪れた時は、特に情報も無く無防備の身に、 この3人の一斉砲撃を浴びて強い衝撃を受けました。

他にもヤン・ブリューゲル、フラゴナール、ブーダン、ドガ、シスレー、モネ、 シニャック、ボナール、ヴュイヤール、ドンゲン、キスリング、ロダン等があり、 知られざる名館と言えます。

(添付7:ギュスターヴ・アドルフ・モッサ作「サイレンの倦怠」、添付9:ドンゲン作「ジェニー夫人の肖像」 は著作権上の理由により割愛しました。
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