美術館訪問記-165 サンタ・マリア・デッリ・アンジョリ教会

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:サンタ・マリア・デッリ・アンジョリ教会

添付2:ベルナルディーノ・ルイーニ作
「キリスト受難の物語」

添付3:ベルナルディーノ・ルイーニ作
「最後の晩餐」

添付4:ベルナルディーノ・ルイーニ作
「最後の晩餐」中央図

添付5:ベルナルディーノ・ルイーニ作
「聖母子と洗礼者ヨハネ」

添付6:レオナルド・ダ・ヴィンチ作
「最後の晩餐」
ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院蔵

添付7:ジョバンニ・ドナート・モントルファーノ作
「磔刑図」
ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院蔵

添付8:ルガーノ湖の風景

スイスとイタリアの国境にルガーノ湖がありますが、 その湖の畔にスイスの町、ルガーノがあります。ミラノまでは60kmほど。 スイスのイタリア語圏であるティチーノ州最大の都市です。

この町の「サンタ・マリア・デッリ・アンジョリ教会」に、 スイスにあるルネサンス期のフレスコ画としては、最も有名な壁画があるのです。

この教会は市街地にあり、サイズは小さく、外見は普通のどこにでもある教会です。

しかし、一歩中に入ると目の前の壁一杯に「キリスト磔刑図」が広がり、 その華やいだ色彩と無数の人間像に圧倒されます。

よく見ると、3人の磔刑図を中心に、キリストの生涯があちこちに描かれている、 「キリスト受難の物語」だということが解って来ます。

ベルナルディーノ・ルイーニが1529年に完成させたものです。

左上の「ゲッセマネの祈り」から始まり、「キリストの裁判」、 「キリストの十字架運び」、中央図の「キリスト磔刑」、「キリストの埋葬」、 「キリストの脇腹の傷を確認するトマス」と続き 右上の「キリスト昇天」で終わっています。

ベルナルディーノ・ルイーニについてはルネサンス期の他の画家同様、 詳しい事は解っていないのですが、ルガーノ湖の西にある マッジョーレ湖の近くで1480年頃生まれ、1500年にミラノに出て来たようです。

ミラノでレオナルド・ダ・ヴィンチの薫陶を受け、レオナルドがフィレンツェに 去った、1503年以降はミラノ周辺で仕事を請け負うようになり、今に残る 彼の最初のフレスコ画は、マッジョーレ湖の畔にある町ルイーノの教会にあります。

1521年にはローマに旅行し、ラファエロの影響を受けたと見做されています。

その後もミラノ周辺で活動を続け、晩年になって彼の最高傑作と目される、 この「キリスト受難の物語」を仕上げています。

アンジョリ教会に入って左側の壁には、ルイーニの「最後の晩餐」、 右の壁には「聖母子と洗礼者ヨハネ」があります。

最後の晩餐は、左側3人、右側3人、中央にキリストを含む7人と、3分割して、 それぞれ独立の絵としても見られるようになっています。

ここでもルイーニはレオナルドの方式とは異なり、 ユダを明らかにそれと判る形で、テーブルのこちら側に配しています。

キリストの隣にいるヨハネも、レオナルドはキリストから遠ざかるように、 傾けているのに、ルイーニはキリストによりかかる、従来の方式を踏襲しています。

これは、レオナルドの場合は、自分の思った方式を貫く自負と、そうできる力が あったのに対し、ルイーニの方は、レオナルド以外の当時の画家が皆そうであった ように、注文主の意向に従わざるを得なかった、という事もあるでしょう。

ルイーニは、当然師のレオナルドの「最後の晩餐」は熟知していたでしょう。

というのも、「キリスト受難の物語」の構図はレオナルドの「最後の晩餐」のある、 ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の反対側の壁にある、 ジョバンニ・ドナート・モントルファーノ作の「磔刑図」とよく似ているのです。

ルイーニはこの「磔刑図」を参考にしたに違いありません。

またルイーニの「最後の晩餐」の左右のパネルは、レオナルドのそれと 似通っているようにも見えますし、3分割して描くというのも、 ルイーニのオリジナルと言えます。

サンタ・マリア・デッリ・アンジョリ教会前から見るルガーノ湖と空は スイスの秋らしくどこまでも澄み切っているのでした。

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