美術館訪問記-150 ダルウィッチ・ピクチャー・ギャラリー

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ダルウィッチ・ピクチャー・ギャラリー正面

添付2:ムリーリョ作
「花売りの娘」

添付3:ダルウィッチ・ピクチャー・ギャラリー内部

添付4:ユベール・ロベール作
「ルーヴル・グランド・ギャラリー・デザイン1796年
ルーヴル美術館蔵

添付5:ヴァザーリ作
「アンドレア・デル・サルトの聖家族」模写 

添付6:ヴァン・ダイク作
「レディー・ディグビー」

添付7:ジョシュア・レイノルズ作
「赤ん坊を抱いた少女」

添付8:レンブラント作
「ヘインのヤーコブ3世」

前回述べたサー・ジョン・ソーンが友人の頼みで設計した美術館があります。

ロンドン郊外のダルウィッチ(Dulwich:ダリッジ、ダリジとも言う)にある 「ダルウィッチ・ピクチャー・ギャラリー」です。

この美術館は日本では殆ど知られていないようですが、 イギリス最古の一般大衆向けに開放された美術館で1811年創設、1817年開館。

ロンドンのナショナル・ギャラリーの1824年開館より7年先んじています。

ここのオールド・マスターの収集は素晴らしく、 ラファエロ、ヴェロネーゼ、ルーベンス、プッサン、ベラスケス、レンブラント、 ムリーリョ、ヴァトゥー、ティエポロ、グエルチーノ、ドルチ、クロード・ロラン、 グイド・レーニ、カナレット、ホガース、ゲインズバラ等一流の品揃え。

これらの作品は実はポーランド王の依頼で、画家で画商だった フランシス・ブルジョワと、共同経営者のフランス人ノエル・デザンファンが 5年間ヨーロッパを飛び回ってかき集めたものでした。

しかし1795年ポーランド王国の消滅で引き取り手がいなくなってしまいました。

二人は他の買い手を探しましたが見つからず、そのうちデザンファンは死去。 残されたブルジョワは友人のサー・ジョン・ソーンの設計で一般に公開する 美術館を建設するよう遺言して、建設資金も遺贈。 デザンファン未亡人は更に資金を倍額寄贈したのです。

親友の遺言と潤沢な資金を得て、ソーンは後世も永く美術館の手本とされる 建物を造り上げました。もっともそれまでは最初から美術館を目的とした建物は 全くなく、あのルーヴルでさえ1793年の開館で、王宮の転用でしたから。

各部屋のアーチ型の天井から自然光を上手に取り入れたこの建物は、 フランスの画家でルーヴルの館長も務めたユベール・ロベールが あるべき理想のルーヴル美術館として描いた絵を実現させたかのようです。

当時のルーヴルは天井が塞がっていて薄暗かったのです。 まだ電燈のない時代、自然光の有効活用以外に方法はなかったでしょうが。

上記に挙げた巨匠達の作品は文句の付けようのない名品揃いで十分堪能しましたが、 それら以外にも印象に残る作品が幾つかありました。

一つはジョルジョ・ヴァザーリの「聖家族」。

師匠だったアンドレア・デル・サルトの作品の模写ですが、 一目見た時はデル・サルトの作かと思ったほどよくできていて、 もう一つピリリとしないヴァザーリにしては出色の作品でした。

ヴァン・ダイクの「レディー・ディグビー」にも驚きました。

1633年の作で、親交のあったサー・ディグビーの妻ヴェネテツィアが 33歳で突然死してベッドに横たわっている姿を描き写したものですが、 死刑囚等の死体を描いた物はともかく、知人の死に様を描いたものはこれ以前に 見た事がなく、おそらく絵画史に残る油彩画作品としては最初のものでしょう。

ジョシュア・レイノルズの「赤ん坊を抱いた少女」も意外な作品でした。

イングランド・ロイヤル・アカデミー初代会長のレイノルズは上流階級の人々の 肖像画を多く手がけた、気品ある画風の保守派を代表する画家ですが、 この作品は茫洋とした朦朧体のような実験的なもので、 美の真髄を追求しようとする彼の本質を垣間見た思いでした。

余談ですが、レンブラントの初期の肖像画「ヘインのヤーコブ3世」は30cm x 25cm のオーク材に描かれた小さな作品なのですが、それだけに盗み易かったのか、 何とこれまでに4回も盗難に会い、4回戻って来たということで ギネスブックに最多盗難記録美術作品として記載されているとか。

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