美術館訪問記-125 ロダン美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ロダン美術館外観

添付2:ロダン作
「青銅時代」

添付3:ロダン作
「カレーの市民」

添付4:ロダン美術館内部

添付5:ロダン美術館の裏庭

添付6:カミーユ・クローデル作
「分別盛り」

添付7:ゴッホ作
「タンギー爺さん」

パリの地下鉄ヴァレンヌ駅の直ぐ西側にはナポレオンの墓がある アンヴァリッドがあり、東側に広大な庭園と城のような館を持つ 「ロダン美術館」があります。

ここはロダンが1908年から1917年に死亡するまで暮らした所。

オーギュスト・ロダンとして知られるロダンは 本名フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンで1840年、パリの生まれです。

彼は正式な美術教育は受けておらず、地元の工芸学校を卒業後、 国立美術学校を3度受験して3度とも不合格になっています。

以後20年近く室内装飾や建築作業等で暮らしながら、 殆ど独学で彫刻の腕を磨くのです。

1875年、ロダンはこつこつと溜めた資金を基に内縁の妻ローズと2カ月間 イタリアを旅し、ドナテッロとミケランジェロの作品に深く感銘します。

旅から帰ったロダンは旅で得た芸術的昂揚を作品にして発表します。 これが等身大の青年像「青銅時代」。

ところが、この像が余りにもリアルでまるで生きているように見えたので、 実際の人間から型を取ったのではないかと、あらぬ疑いをかけられてしまうのです。

この疑いは2年後にロダンがより大きな同じ像を作るまで続きましたが、 型取りをしていない事を納得した審査員達は非を認め、「青銅時代」を賞賛します。

このスキャンダルが逆にロダンの名を一挙に高める事になったのです。

やがて彼は「近代彫刻の父」と称されることになります。

ところで現在ロダン美術館になっている館は、正確にはロダンの家ではなく、 「ビロン館」と呼ばれ、1730年建造のロココ芸術の粋を集めた屋敷で、 安く貸し出されていたのを一部借りていたものなのです。

同じ屋敷の別な部屋には詩人のリルケやコクトー、 画家のマティスも住んでいたことがありました。

1911年、国がこの屋敷と土地を買い取ろうとした時に、 ロダンは自分の作品とコレクションを国に寄贈する代わりに、 ここを自分の美術館にしてくれと提案したのです。

紆余曲折の末、1916年にその提案は受理されます。

安心したロダンは翌年、53年間も内縁関係にあったローズ・ブーレと正式に結婚し、 その16日後の彼女の死を看取った後、77歳で死去。

ロダン美術館は1919年開館しました。

広々とした庭園には「地獄の門」、「カレーの市民」、「バルザック記念像」、 「考える人」等の大作が置かれ、2階建ての館内には膨大な所蔵品の中から、 折々の企画展の趣旨に合う作品が展示されています。

なにせ、ロダンの彫刻6600点、デッサン7000点を所有しているといいます。 ロダンはデッサンの名手でもありました。 勿論、「青銅時代」、「接吻」、「鼻の潰れた男のマスク」等の代表作は 常時展示されています。

弟子であり愛人でもあったカミーユ・クローデルにも1部屋が割かれています。

ここに置かれた作品群はカミーユの弟で詩人、劇作家、外交官だった ポール・クローデルが1952年寄贈したものです。

彼女の「分別盛り」(直訳は「歳の壁」1898年作)は、 痩せて年老いた女に引きずられるように歩む男性に、 懇願するように膝まずきながら 手を差し伸ばして後を追う若い女性を配した、大作です。

ここにはローズ・ブーレとカミーユのどちらをとるのか、 煮え切らないロダンとの15年間の三角関係に悩む カミーユの思いが迸り出ており、哀れを誘います。

彫刻家として、女として、全てを捧げたロダンへの愛と抵抗の作品であり、 一人の女としての情愛、プライド、悲しみが込められています。

彼女はこの作品を作った後、心を病み、精神病院で一生を終えます。

美術館には、有名な「タンギー爺さん」を含むゴッホ3点、 ロダンがモデルになったこともあるルノワール1点、 モネ、ムンク、ウジェーヌ・カリエール等のロダンの収集品も展示されています。

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