美術館訪問記-108 ルーベンス・ハウス

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ルーベンス・ハウス外観

添付2:ルーベンス作
「ルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像」1609-10年頃
ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク蔵

添付3:ルーベンス作
「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」1630年代
ウィーン、美術史美術館蔵

添付4:アンソニー・ヴァン・ダイク作
「自画像」22歳頃
ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク蔵

添付5:ルーベンス・ハウス内部

添付6:ルーベンス作「自画像」

今回から暫らくは、モネの家と庭園やピカソの生家、ルノワール美術館のように、 芸術家の自宅が美術館や博物館的に開放されている所を主として取り上げましょう。

最初は「王の画家にして画家の王」と呼ばれた ピーテル・パウル・ルーベンスの「ルーベンス・ハウス」です。

ベルギーのアントワープにあります。

今まで訪れたこの類の画家の家としては最も豪華。 貴族の館というにふさわしい大邸宅です。

それもその筈、ルーベンスは、 当時アントワープを統治していた王女イザベラから「高貴な大公家の貴族」を、 イギリス国王チャールズ1世からはナイトを、 スペイン国王フィリッペ4世からもナイトを授与された、正真正銘の貴族でした。

ルーベンスは画家であっただけでなく、外交官としても活躍し、 当時フランドルを支配していたスペインばかりでなく、イギリス、フランス、 ネーデルランド等の宮廷を訪れ、何処でも賓客として遇されていたのです。

広い庭を持つこの3階建ての豪邸をルーベンスは1610年、34歳の時に購入。 彫刻や建築にも造詣の深かった彼は屋敷の改築も自ら設計しました。

好みのバロック風に改築し、死亡する1640年まで住み、8人の子供を育てたのです。

その内3人は、1626年に死亡したイザベラ・ブラントの子で、 5人は、1630年に結婚したエレーヌ・フールマンの子です。

2度目の結婚当時ルーベンスは53歳、エレーヌは16歳でした。

添付2は1609年に結婚したイザベラとの記念肖像画です。 ルーベンス32歳、イザベラ18歳の時でした。

重ね合わされた二人の右手が構図の中心を占めていますが、 これは伝統的に結婚の誓いのポーズであり、 背景のスイカズラは永遠に変わらぬ愛の象徴です。

添付3は二度目の妻エレーヌを古代ギリシャ彫刻に見られる 恥じらいのヴィーナスのポーズで描いたもので、 ルーベンスは、この絵だけは自分の死後も売却せずエレーヌが保持するよう 遺言しています。

1600年、23歳で宮廷画家としてイタリアに渡っていたルーベンスは ヴェネツィアやローマを訪れる機会を得、 ルネサンスの名画やローマ時代の古代彫刻を熱心に観察、模写して 多くのものを学びました。

しかし母親の死を契機に1608年帰国。

イタリアでの経験を活かしたルーベンスの作品は評判を呼び、 たちまち多くの注文が殺到したのです。

絵の注文は一人では捌き切れない数に達したため、ルーベンスはこの屋敷の一部に 巨大なアトリエを造り、多くの助手を雇いました。

ルーベンスの描いた小さなサイズの下絵を基に助手達が本画を制作。 重要な人物や最後の仕上げだけをルーベンスが行う事で 膨大な数の作品を効率的に作成していきました。

助手達はここで様々な技術を学びながら腕を磨いていきました。

中でも17歳で助手になったアンソニー・ヴァン・ダイクは ルーベンスに「我が最良の弟子」と言わしめるほどの才能を発揮。

その後ヴァン・ダイクは次世代のフランドル絵画の担い手に成長していくのです。

ルーベンスは制作の傍ら、この家に当時アントワープ最大となる、 絵画、彫刻、コイン、骨董品等を収集し、それらを見たさに幾多の王侯貴族や 富裕な市民達がこの家を訪れました。

その事が新たな注文を獲得する契機にもなりました。

しかし、これらのコレクションは全てルーベンスの死後売却され、現在あるのは、 ベルギー国内の他の美術館、博物館からの寄贈または貸与のものです。

それでも、ヴェロネーゼ、ヨルダーンス、ヤン・ブリューゲル2世の作品が 1点ずつとルーベンスが9点、 弟子の作品や見事な家具、彫刻類と共に飾られていました。

中でも壮年期の彼の自画像は、注文で描いた他の作品とは異なり、 外交官として長い間自宅を離れざるをえなかった彼が、 家族のために描いた、慈愛と迫力のこもる1点でした。

この家は広場に面しており、訪れた早春の日の晴れた午後、 隙間なく人々がカフェの椅子を埋めていました。