天地明察


映画「天地明察」

2012/09/20

2010年「天地明察」の小説が2010年の本屋大賞を受賞した時すぐに購入し一気に読んだ。
 (囲碁日記・小説「天地明察」安井算哲と渋川春海)

主人公安井算哲は江戸時代の棋士で、天文学にも通じており、日本人による初めての貞享暦を作成した。安井算哲・後に渋川晴海と名乗った。寛永16年閏11月3日(1639年12月27日)生まれ - 正徳5年10月6日(1715年11月1日)没。

今年映画化され、宮崎あおい出演と聴き9月15日の封切りを心待ちにしていた。
ようやく猛暑の季節も終わったかと思わせる9月後半多摩センターのワーナーマイカルに出かけた。テレビなどでも宣伝しており、混んでいるかとおもい平日朝一番で入館してみると10人たらずの観客であった。9時30分上映開始のあと、15分ほど耳が痛くなるほどビートの効いたCMが続き、本番開始頃までには結構観客が入った。常連客は丁度良い頃を知っているらしい。

囲碁は天文学と通じるところがあり、中央を天元といい、4隅の4の四をなどの要点を星という。19X19=361も1年の365日に近く、その起源を中国の占星術からという。その膨大な石の組み合わせから、図り知れなく深遠で大宇宙を思わせるところがある。

小説とは違う部分もあったが、ほぽ同じ脚本。どちらかというと囲碁の場面は少なく改暦が主と感じた。

映画では京都での金環蝕の場面があったが、調べてみると渋川晴海の時代は京都では金環蝕はなかったようだ。もっとも近くて1730年に京都で金環蝕があったが渋川晴海が75歳で没後15年後のことであった。

1839年(天保10年8月1日)江戸では金環蝕が見えた。この時は日の出から蝕が始まっている日出帯蝕で、渋川景佑の小石川三百坂測量所では、日出直後、地平高度1度あまりになった時点で金環蝕が始まったと景佑の寛政暦書に記されている。


(天地明察HPより)

寛文10年(1670年)御城碁 本因坊道策(白)vs安井算哲(黒)50手まで。初手天元。 天元の黒石は238手目でポン抜かれた。 結果 黒9目負け。映画では初手天元に対し道策が横に付けお互いに切り結び風車の形になり、途中で日蝕が始まり中止となった。

貞享暦(じょうきゅうれき click:拡大)

「紙張子製地球儀(実物)」1695年渋川春海作 重要文化財 国立科学博物館(2010年6月11日渋川晴海特別展にて写す)

1839年の江戸での金環蝕を記した渋川景佑まで、幕府天文方渋川家について調べてみると当時の武家の家系を絶やさぬように苦労した様子が伝わって来る。

渋川 敬尹 しぶかわ ひろただ、元禄9年(1696年) - 享保11年(1726年)
渋川晴海の弟安井知哲の次男として京都に生まれる。正徳5年(1715年)に伯父である初代天文方渋川春海の嫡男で2代目となっていた従兄の渋川昔尹が子の無いまま急逝し、隠居である春海も病気となったため同年6月に急遽渋川家の家督と天文方を継ぐ。同年10月には春海も病没した。

渋川 光洪 しぶかわ みつひろ、享保8年(1723年) - 明和8年(1771年)
渋川敬尹の三男。

渋川 正清 しぶかわ まさきよ、寛保3年(1743年) - 寛政11年(1799年)
川口流清の子で渋川光洪の養子となった。

渋川正陽 しぶかわ まさてる、明和8年(1771年) - 文政4年(1821年)
川口春芳の子。天明7年(1787年)、17歳で天文方渋川正清の養子となる。

渋川 景佑 しぶかわ かげすけ、天明7年(1787年) - 安政3年(1856年)
天文学者高橋至時の次男で渋川正陽の養子になった。渋川家の養子になる前に伊能忠敬に従って東海地方・紀伊半島・中国地方の測量に従事した。日本最後の太陽太陰暦である天保暦の作成者として知られている。





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