囲碁日記

小説「天地明察」安井算哲と渋川春海

久しぶりに骨太の歴史小説に巡り合い、一気に読み終えた。
江戸時代の天文学者渋川春海と囲碁棋士の安井算哲についてはそれぞれの名は知っていたが同一人物であったことを、6月に上野の国立科学博物館で知った。

安井算哲は、寛永16年(西暦1639年)に徳川幕府碁所四家(安井、本因坊、林、井上)の一つである安井家に生まれ、12才で四代将軍家綱の御前で碁をうった。13才で父親である初代算哲 が亡くなったあと算哲の名を継いだ。本因坊道策と将軍御前での対局をしている。 当時の棋士は武士ではなく、僧侶のような身分だったらしいが算哲はなぜか帯刀を許されている。帯刀の理由はこの小説を読んでいるうち解ってくる。昭徳2年(西暦1715年)没。

渋川春海の名は、先祖の所領地渋川にちなんで算哲が好んで用いた。天文学と算術に興味を持ち、同年代の関孝和から影響を受けた。
当時は算術の難問を神社の絵馬として奉納する習慣があり、解付きや、解を求めるものもあり、解が正しい場合出題者などが「明察」と添え書きをした。絵馬を通じて、難問を次々と解いた関孝和の名前を知ることになる。

春海は天文学者として会津藩主保科正之や水戸藩主徳川光圀に見出され改暦に従事することになる。当時は8百年以上前に中国から伝わった宣明暦(せんみょうれき)が使用されていたが次第に月蝕などの予報があたらなくなって、実際の日月の動きと2日ほどずれていたため、改暦の必要が問われていた。この時代の暦は生活の吉凶占いなど庶民の生活に深く根づいており、神社、陰陽師、公家と武家の利害や、宗教的なことがらにも影響があった。また頒暦の版権により莫大な利益をもたらすことに幕府の重鎮は気がついていた。

春海は中国元の授時暦(じゅじれき)の採用を進言したが、所詮中国とは地理的に差異があり、地上からの太陽や月の計測に基づいた暦がそのまま日本には使えないため、失敗。

失意のそこで関孝和と初めて対面し、改暦を託された春海は数年後に精密な天測と運行の計算にもとづいた日本独自の大和暦を作成した。その後紆余曲折があったが、晴海の暦は貞享暦 (じょうきょうれき)として1685年(貞享2年)に施行された。春海が暦に従事してから22年の月日を要した。
渋川春海はこの功績により天文方に任命され士分にとりたてられ江戸に邸宅が与えられた。

後ろ盾となり多大な援助をした会津藩主保科正之、老中から大老になった酒井雅楽頭忠清など、幕府方重鎮との囲碁指導者としての人脈から、公家方の陰陽師土御門家(つちみかどけ)を前に出したアライアンス手法が功を奏した過程、本因坊道策が囲碁感の違いに苛立つ会話などたくみに描書かれている。
あるいは、天体の位置を測定する渾天儀と称された器具を初めて完成したとき、それを妻の手で抱いて欲しいと頼んだ。その妻が病死したときの落胆ぶりや、若き日に神社の絵馬を見に行き初めてあった娘と後に再婚し、後妻との男女の心のかよう様子など、読み応え十分であった。

作者の冲方丁は1977年岐阜生まれ。早稲田大学在学中に小説家としてデビューし、ゲーム作家、アニメ作家としても活躍中。

小説「天地明察」冲方丁(うぶかたとう)

国立科学博物館(2010年6月11日写す)

「紙張子製地球儀(実物)」1695年渋川春海作 重要文化財 国立科学博物館(2010年6月11日写す)

寛文10年(1670年)御城碁 本因坊道策(白)vs安井算哲(黒)50手まで。初手天元。
天元の黒石は238手目でポン抜かれた。道策の意地か? 結果 黒9目負け

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