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本因坊秀策生誕185周年・6月6日

2014/06/06

6月6日 Google検索サイトの入力画面背景に、囲碁のイメージが表示された。囲碁関連の検索をするので、囲碁ファンのためのGoogleのサービスかと思ったが、6月6日は本因坊秀策の誕生日であった。

Googleは、2014年6月6日のロゴを日本の囲碁棋士、本因坊秀策生誕185周年を記念したデザインに変更した。
Googleの文字が碁石と本因坊秀策のイラストでデザインされている。なお本因坊秀策と一緒に碁盤が描かれているが、そこで展開されている手は秀策流という布石で、本因坊秀策がよく使っていたことからそのように呼ばれている。

本因坊秀策は1829年、尾道市生まれ。1837年に本因坊丈和に弟子入りし、1839年には初段の免状を得る。さらに1846年には井上幻庵因碩と対局し、有名な「耳赤の一局」もこの年に行われた。1848年、14世本因坊跡目を継承。翌年の1849年には徳川将軍の御前で対局する御城碁に出仕し、12年間で19連勝という大記録を打ち立てた。これらの実績により、本因坊秀策は現代においても史上最強の棋士と呼ばれることが多い。1862年、コレラにより死去。

秀策流
黒1・3・5の手で向きの異なる小目を連打する布石。多くの場合黒7手目のコスミまでを「秀策流」と称する。この手は秀策の創案ではないが、大いに活用して好成績を挙げたところから「秀策のコスミ」と呼ばれる。秀策は、「碁盤の広さが変わらぬ限り、このコスミが悪手とされることはあるまい」と語ったと伝えられる。

「耳赤(みみあか)の一手」
右下の大斜定石で秀策が誤り、井上幻庵因碩の繰り出した秘手もあって秀策は劣勢に陥った。幻庵は自在に打ち回したが、126手目のトビ(白▲)が緩手。これに対して秀策の打った黒127手目(図の黒△)が「耳赤(みみあか)の一手」として現代に語り伝えられる妙手であった。
この手を打つ直前までは井上の優位だったが、この手によって形勢は急接近したとされる。上辺の模様を拡大し、右辺の白の厚みを消し、下辺の弱石に間接的に助けを送り、左辺の打ち込みを狙う一石四鳥の手である。
 対局を横で見ていたある医師はこの様子を見て、「これは秀策の勝ちだ」と断定した。周りの者が何故かと尋ねところ、「碁の内容はよく判らないが、先ほどの一手が打たれた時に井上先生の耳が赤くなった。動揺し、自信を失った証拠であり、これでは勝ち目はないだろう」と述べた。耳赤の一手という名は、このエピソードに由来する。

情報:ウィキペディアより

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