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美術館訪問記-95 ルクセンブルク国立歴史・美術博物館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ルクセンブルク国立歴史・美術博物館正面

添付2:地下2階のモザイクの部屋

添付3:ロッソ・フィオレンティーノ作
「バッカス、ヴィーナス、キューピット」

添付4:クラナッハ作
「慈善」

添付5:ターナー作
「フェッチェンホフから見たルクセンブルク」

添付7:ジョゼフ・クッター作
「おもちゃの馬」

南にフランス、東にドイツ、西と北をベルギーに接する国、ルクセンブルク。 正式名称はルクセンブルク大公国で立憲君主制を採っています。

面積は神奈川県位の小国で人口は50万人に達しませんが、 国民一人当たりの所得は、購買力平価ベースでは世界一。

この国の首都ルクセンブルクに「国立歴史・美術博物館」があります。

外見は小振りの近代的ビルディングですが、 中に入ると地上5階、地下5階、120の展示室を誇ります。

但し絵画の展示は上部の3階のみ。 他の階は考古学的発掘物や装飾美術が展示されています。

地下2階には、ローマ時代のモザイクを床に張りつめた広い部屋もありました。

立派なビルと世界一裕福な国民に支えられた美術館という事で期待しましたが、 たいした作品はありません。

好きな画家の一人、ドメニコ・ギルランダイオの作という小品がありましたが、 大きな絵から切り出した一部で、工房の弟子の作品のようでした。

拾い物は、ロッソ・フィオレンティーノの大作(210cm x 162cm)があったことです。

ロッソは1494年、イタリア、フィレンツェの生まれで 本名ジョバンニ・バティスタ・ディ・ヤコポ。 「赤毛のフィレンツェ人」というのが彼の通称になっています。

アンドレア・デル・サルトのもとでポントルモと共に修業し、1523年にローマに出、 ミケランジェロやラファエロの作品に感化されています。

レオナルド・ダ・ヴィンチやデル・サルトの後釜を探していたフランス王の フランソワ1世の招きを受け、1530年にフランスに移り、 フォンテーヌブロー宮殿の装飾をリーダーとして10年後の死まで手がけました。

宮殿の装飾を手伝い、彼の薫陶を受けたフランス人画家達が後に フォンテーヌブロー派と呼ばれる集団で ロッソ・フィオレンティーノは奇しくもフランス美術に大きな影響を与えた訳です。

この絵は1531年の制作となっていますから、フランスへ行った直後で、 明確なマニエリスムの傾向と優雅なフランス宮廷好みの作風を示しています。

ルーカス・クラナッハの「慈善」という中品がありました。

彼の作で子供が何人も出て来るのは、幾つか他の美術館でも見かけましたが、 この絵は、クラナッハ父か、息子の作品かが、明確ではないようで、 クラナッハ父あるいは子の作品と表示してありました。

他にはターナーの2点とマグリットの3点が目に付いた程度。

ルクセンブルクの出身のジョゼフ・クッターという画家に2部屋が割かれ、 全部で25作品が展示されていました。

セザンヌの影響を強く受け、印象派風の絵を描いていましたが、その後 表現主義的な独自のスタイルを確立したようです。 添付の「おもちゃの馬」はルクセンブルク発行の切手の図案にもなっています。

事前の調べでは、レンブラントやルーベンスもある事になっていたので、 英語の達者な受け付けの男性に聞いてみると、 10年前にサザビーズの競売にかけ、売却したとの事。

この新しいビルが10年は経っていないように見えるので、 その建設資金にしたものでしょうか。

それにしてもルクセンブルク唯一の国立美術館としては勿体無い事をしたものです。

注:

マニエリスム:ラファエロの死(1520年)後から17世紀初頭にかけて風靡した 芸術様式。ルネサンスの完成された手法(イタリア語でマニエラ)を応用し、 自然を超える優美な芸術を求めた。長く引き伸ばされた人体、鮮やかな色彩、 螺旋状の不安定な構図、わざと乱されたバランスや比率等が特徴。 17世紀以降はマンネリズムとして型にはまった生気の欠けた作品という 蔑称でしたが、20世紀に入ってマニエリスムも独立した表現形態として 再評価されています。

(*マグリット作「生きているモデル」は著作権上の理由により割愛しました。管理人)

美術館訪問記 No.96 はこちら

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