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美術館訪問記 - 639 ガウディ博物館、Barcelona

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ガウディ博物館外観

添付3:ガウディ博物館内

添付4:ガウディ博物館内

添付5:ガウディ博物館庭の彫刻

添付6:ガウディ博物館庭の彫刻

前回触れたアントニ・ガウディが20年間住んだ家が、博物館となって1963年から一般公開されています。それが「ガウディ博物館」。

まだガウディ本人については説明していませんでした。

彼はバルセロナが州都であるフランス国境に接する、スペイン北東部カタルーニャ地方の両親共に銅細工職人の家系に1852年誕生。これが彼の芸術的センスに大きく影響したとされます。

幼い頃、リュウマチを患い、他の子供たちと元気に遊ぶこともままならず、一人で過ごすことも多かったようですが、後々「自然が教科書だった」と述べている通り、小さい頃から動植物などをよく観察して育って行きました。

21歳でバルセロナの建築学校に入りますが、経済的に余裕がなく、勉強の傍ら、設計事務所などで働き、1878年卒業した時には、既に幾つかのプロジェクトを経験済みで、製図や水彩、デッサンに才能を発揮していました。

建築学校の校長は、ガウディに卒業に際して建築士の資格を与える時に、「天才か狂人か、判断は時に任せよう」と言っています。

卒業後は、内装や装飾の仕事を手掛け始めます。当時バルセロナは繊維などの新興産業によって急激な近代化の波が押し寄せ、豊かな経済力を背景に、カタルーニャ民族主義が高揚した時期でした。

卒業と同時に手掛けた1878年パリ万博に出展する店のショーケースのデザインがガウディに幸運をもたらします。

たまたま、このショーケースを見た実業家で大富豪のエウセビオ・グエル伯爵がその抜きん出た才能を見抜き、会った二人は意気投合して、グエルは生涯、ガウディのよき理解者であり、パトロンであり続けるのです。

グエルという後援者を得たガウディは、次々と精力的に事業を手掛け、建築家ガウディの名は周囲に高く評価されるようになりました。

1883年には、ガウディがその生涯を捧げることになるサグラダ・ファミリアの専任建築家に任命されるのです。

グエルは以前にイギリスで暮らしており、そこでの都市計画の進行を目にして、バルセロナにも同様な新興住宅地を造り、住宅地の建設と同時に、住民の生活ニーズに応じる全ての施設、サービスを組み込んだ新しい街造りを構想。

バルセロナの北側にある山を購入して、公園を造り、その周囲に住宅地を建設する一大プロジェクトをガウディに任せるのです。

しかし、公共交通機関が発達していなかった当時のバルセロナでは、この場所は中心地からあまりにも遠く、分譲地は買い手のつかないままでした。

結局グエル公園内に建った住居は3棟だけで、その内の一つはグエル邸、別な一つはガウディが1906年に購入したガウディ邸でした。

現在博物館になっているこの邸宅の設計者は別人なのですが、庭や家具、装飾品類は全て独身だったガウディの好みのままに作られており、現在も彼が住んでいたままに保存されているという事です。

ピンクの外壁と小塔のある家は、ガウディの好みとは言えないでしょうが、ヨーロッパでは南国的なスペインの陽光の下で可愛く映ります。

家に入ると玄関にガウディのブロンズ像がありました。誰よりも誠実にガウディに協力した彫刻家マタマラ・フロタッツの作品で実物のガウディをモデルに制作した唯一の作品でもあります。

館内には彼がデザインした椅子や遺品などが展示され、庭にも鉄細工やモザイクなどガウディがデザインしたものがふんだんに散りばめられていました。

順風満帆のガウディでしたが、1918年にグエルが亡くなると、だんだん自分の殻の中に閉じこもるようになり、1926年にこの屋敷から引っ越してライフワークとなっていたサグラダ・ファミリアに専念するようになります。

しかし、越してほどなく、ミサに向かう途中に路面電車に轢かれてしまうのです。もはや身なりを一切気にかけなくなっていた彼は、ホームレス同然のみすぼらしい恰好をしていたため、誰も彼を高名なガウディと思う人はなく、手当が遅れて3日後には亡くなってしまったのでした。

その後、彼の遺体は、サグラダ・ファミリアへと埋葬されました。生涯独身の身だったガウディにとって、サグラダ・ファミリアこそが安住の地なのかもしれません。



(添付2:マタマラ・フロタッツ作「アントニ・ガウディ」は著作権上の理由により割愛しました。
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