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美術館訪問記 - 634 ブライトン博物館・美術館、Brighton

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ロイヤル・パビリオン正面

添付2:ロイヤル・パビリオン内部

添付3:ブライトン博物館・美術館外観

添付4:ブライトン博物館・美術館内部

添付5:ヤン・リーフェンス作
「自画像」1630年頃
市立ラーケンハル美術館蔵

添付6:ヤン・リーフェンス作
「ホイヘンスの肖像」
アムステルダム国立美術館蔵

添付7:ヤン・リーフェンス作
「ラザロの復活」

添付8:アールト・ファン・デル・ネール作
「凍河上のスケート」

添付9:アンゲリカ・カウフマン作
「呆然とするペネロペ」

次はブライトン。ロンドンの南80㎞足らずの場所にある、海に面したリゾート地で多くの観光客で賑わう人口29万人余りの観光都市です。

ここの観光の目玉の一つが「ロイヤル・パビリオン」。

ジョージ4世が摂政皇太子時代の1787年に、海辺の別荘として建てさせた宮殿で、新古典様式の建物でしたが、1815年から1823年にかけて、ジョン・ナッシュによって現在のインド・イスラム様式に拡張されました。

室内装飾には贅沢に中国風を取り入れた、イギリスには珍しい建物で、観光にはうってつけですが、観るべき美術品は建物と装飾以外にありません。

同じ敷地内に隣接してあるのが「ブライトン博物館・美術館」

イギリスの生物学者でロンドンにある自然史博物館の創設者でもあるリチャード・オーウェンによって1861年11月に開設された、国内でも古い方の博物館・美術館です。

当初はロイヤル・パビリオンの2階の数室を間借りしたもので、ブライトンの地域住民が世界中から収集したアート・コレクションや、自然史関連の標本などが主な展示物でした。

コレクションの拡大に伴い、1902年には現在地に移転。2002年に約20億円をかけて、ロイヤル・パビリオンに合わせた、インド・サラセン様式に改装・拡張されました。

博物館・美術館の名のとおり、考古学的発掘品から自然史関連、地方の歴史関係、家具、装飾品、陶磁器、銀食器、玩具、衣装、映像媒体、既刊本、世界各地の面や彫刻物などの美術品と何でも揃っています。

美術部門ではヤン・リーフェンスや、ニコラース・マース、アールト・ファン・デル・ネール、ヤン・フィクトルスなど、大美術館でしか見かけないオールド・マスターが幾つかありました。

ブライトンはロンドンに近い海浜リゾート地で、余生をこの地で送った富豪の遺贈品なのでしょう。

これらの画家達はまだ説明していませんでしたが、他の画家はいずれ触れるとして、今回はヤン・リーフェンスを採り上げましょう。

ヤン・リーフェンスは、1607年ライデン生まれのオランダの画家です。

リーフェンスは12歳頃にアムステルダムの著名画家ピーテル・ラストマンの下に送られ、2年間修業したといいます。つまり14歳の時には一人前の画家として活動し始めた訳で、若くして才能を認められた彼は神童として有名になりました。

同郷で、リーフェンスの4年後にラストマンに弟子入り後、帰郷したレンブラントと1626年から1631年まで共同でライデンに工房を構え、互いに強い影響を与えつつ、ほぼ同じようなスタイルの作品を残しています。

当時二人の許を訪れたオランダ総督の秘書で詩人、外交官、学者でもあったコンスタンティン・ホイヘンスは、二人共頑固者で、腕を上げるためにイタリアへ行った方がよいと言ったが、全く聞こうとしなかったと書いています。

代わりにリーフェンスはホイヘンスの肖像画を描くことを切望し、「会った瞬間からあなたを描きたくて描きたくて、夜も眠れないほどだった」と言ったとか。

実際1629年作の「ホイヘンスの肖像」を残していますが、宮廷で顔が広く、欧州各国に知人の多いホイヘンスのとりなしを狙って、親密な関係を築こうとしたとみられ、世知にも長けた人物だったようです。

ホイヘンス経由で英国から招かれたリーフェンスは、1631年に英国へ渡り、24歳でイングランド宮廷画家となっています。レンブラントは仕方なくアムステルダムへ出ていきます。

リーフェンスは等身大の作品に優れ、そのドラマティックな構成はカラヴァッジョからの影響が見られます。

1635年、イングランドから戻ってアントワープに落ち着き、1638年に結婚します。当時リーフェンスは貴族や市長たちから多くの依頼を受けていました。

ハーグとベルリンで宮廷画家として活躍した後、1655年にアムステルダムに戻ります。

リーフェンスは一流の画家として認められてはいましたが、レンブラント同様浪費癖があり、1672年オランダの美術市場が崩壊後は貧困に陥り、1674年死亡時に、遺族は負債過多のため、一切の相続を拒否しています。

リーフェンスは日本ではどういう訳か殆ど知られていませんが、欧米ではレンブラント並みに、たいていの著名美術館は所蔵しています。

地方美術館で見かけることは珍しいのですが、この美術館には彼の「ラザロの復活」がありました。

ラザロの復活は、新約聖書のヨハネの福音書でのみ述べられたイエスの奇跡であり、イエス・キリストは親しかったラザロが病気と聞いて訪れた所、着いた時には既に死後4日目で、墓に埋葬されていました。

イエスが墓の前に立ち、「ラザロ、出てきなさい」というと、死んだ筈のラザロが布にまかれて出てきたのでした。このラザロの蘇生を見た人々はイエスを信じ、ユダヤ人の指導者たちはいかにしてイエスを殺すか計画し始めたということです。

この美術館には他にもゲインズバラやダイス、アンゲリカ・カウフマン、ウィリアム・ブレイク、アルマ=タデマ、フランシス・カデルなどがありました。