第476回で紹介した「ウォバーン・アビー」のあるベッドフォードには、もう一つ、市の中心近くに「ヒギンズ美術館」があります。
この美術館にはこれまでにはなかった二つの特徴があります。
その一つは、美術館の基になっているのが醸造家セシル・ヒギンズ(1856-1941)のコレクションで、ヒギンズの醸造所に隣接している事。美術館と醸造工場が隣り合わせというのは、普通はありません。
二つ目は、この美術館には油彩画が乏しく、水彩画と素描、版画専門という事です。水彩画がメインの美術館というのは、ごく小規模なものは別にして他に知りません。
水彩や素描ばかりですがが、アルマ=タデマやブレイク、バーン=ジョーンズ、コンスタブル、ダイス、ルシアン・フロイド、ゲインズバラ、ハント、ココシュカ、ミレイ、ロセッティ、シッカート、ターナー、フレデリック・サンズ等のいい絵が勢揃いしていて見応え十分です。
水彩画は古くから存在しますが、現在の水彩技法は15世紀末のデューラーに端を発し、その後さまざまな画家たちの研究と工夫によって受け継がれ、飛躍的に発展して今日に至っています。
日本語で「水彩」という場合、英語で言うウォーターカラー(透明水彩)とボディーカラー(不透明水彩)の総称です。
ウォーターカラーは文字どおり水彩ですが、技法と同時に作品自体を指す言葉でもあります。
英語でペインティングという場合はオイル・ペインティング(油彩画)のことで、決してウォーターカラー・ペインティングとは言わない習慣・伝統があります。水彩画はウォーターカラーまたはウォーターカラー・ドローイングです。
絵画(ペインティング)のなかに油彩と水彩の区分があるわけではなく、絵画といえば油彩で、水彩は油彩とは別の次元に存在する芸術形式と言えます。
ちなみに日本語では素描でも油彩画でも、絵を「描く」と言いますが、英語では素描を描く場合はドローイング、油彩画を描く場合はペインティングといい、動詞も異なります。他の西洋語でも同様です。
欧米の美術館や美術本の表示では通常、ペインティングとプリントで区分され、ペインティングは手描きの油彩画で、プリントは水彩画や素描、様々な版画類、印刷技法を使用した表現物などを指します。プリントはグラフィックと表現されることもあります。
一般の日本人の考え方とは異なるかもしれないので念のため。
水彩は18世紀末から19世紀にかけて、特にイギリスを中心に確立し発展しました。先に挙げた画家たちもココシュカ以外は全てイギリスで活躍した芸術家です。
中ではブレイクは何度も名前を出しましたが、まだ解説していませんでした。
ウィリアム・ブレイクは1757年ロンドンの生まれで、幼少期から絵の才能を示して10歳で絵画の学校に入り、5年間学んだ後、約7年間を銅版画の修行に費やし、1780年頃から銅版画家として独立。
主に本の挿絵などで生計をたて、油彩を嫌って水彩を多数描き、水彩画の歴史に大きな足跡を残したのでした。
ブレイクは絵の才能と同時に詩の才能を持ち合わせており、さらに本人が「ビジョン」と呼ぶ幻視の能力がありました。
この幻視の能力を使って、ブレイクはダンテやシェイクスピア、聖書などの独自解釈の挿絵を制作すると同時に、「無垢の歌」「経験の歌」などの詩や「四人のゾアたち」「ミルトン」「エルサレム」などの預言書を書き遺しています。
イングランド国歌の一つ(これが国歌だと決まったものはない)の「エルサレム」はブレイクの作品「ミルトン」の序詞が使用されています。
これらを銅版画による詩画集として出版し、その銅版画にも水彩を施して、独特な彩色本を作り上げています。
ブレイクの詩と絵は、当時まったく認められず、貧困のうちに1827年、生涯を閉じましたが、いまやイギリスはもとより、世界的にも凄い人気で「Blake」という研究雑誌も出ているくらいです。
日本人では柳宗悦や大江健三郎などがブレイクの影響を受けています。柳は、「生きとし生けるものはすべて神聖である」というブレイクの肯定の思想に着目し、またそこに東洋的色調を見出しました。
ブレイク最後の仕事はダンテの詩編「神曲」のための挿絵でした。
添付作品は、盟友ヴェルギリウスとともに地獄を遍歴していたダンテが、煉獄で生前の恋人ベアトリーチェに出会い、ともに天国に旅立とうとする場面です。
渦を巻く車輪と凱旋戦車を曳くグリフォンが中央に据えられています。台の上に立つのはベアトリーチェで、画面の右下に立つのがダンテ。
水彩による、この世ならぬ色彩で描き出された天上の不思議な生き物たちや、人物の衣服の表現などに、ブレイクの想像力がいかんなく発揮されています。
インク描きのビアズリー作品も付け加えておきましょう。