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美術館訪問記 - 625 ヴィクトリア美術館、Bath

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ヴィクトリア美術館正面

添付2:ヴィクトリア美術館側面

添付3:ヴィクトリア美術館内部

添付4:ゲインズバラ作
「森の中」

添付5:ゾファニー作
「ソフィア・デュメグの肖像」

添付6:シッカート作
「貴婦人、セリア・ブルネル」

添付7:シッカート作
「バースのロンドン通り、1941年」

添付8:シッカート作
「切り裂きジャックの部屋」
マンチェスター美術館蔵

前回のホルバーン美術館から下り坂を600m程降りていくと、町の中心を貫くエイヴォン川に架かるバルトニー橋を渡り終わった場所に「ヴィクトリア美術館」があります。

バース住民だったアラベッラさんが1896年に市に遺贈した1万ポンドに市民から募った4500ポンドの寄付金を加え、1897年、ヴィクトリア女王在位60周年を祝って完成した美術館です。

そのため、ドームは女王の王冠を模しており、外壁にはヴィクトリア女王の立像がはめ込まれています。

建設資金が十分ではなかったのか、大小2部屋だけの小規模な美術館ですが、観光客や市民がが行き交う繁華街にありながら、ほっと一息つける静かで安らいだ空間となっています。

コレクションは地元またはバースに所縁のある美術コレクターからの寄贈品を中心に約1500点の絵画・彫刻・陶磁器・ガラス製品など。

絵画はイギリスで活躍した画家の作品が主体でゲインズバラ、ゾファニー、ワッツ、ジョン・コリア、シッカート、マッシュー・スミス、ブラングウィン等。

シッカートは初出です。ウォルター・シッカートは1860年ミュンヘンの生まれで、ドイツ人の父親とイギリス人の母親を持ち、父親と祖父も芸術家でした。

1868年、一家はイギリスに移住し、イギリス国籍を収得。ウォルターは当初、俳優を目指しますが、21歳で画家になるべく美術学校へ入学。ホイッスラーに出会い、彼の画風に心酔して弟子になります。

23歳でパリに行った彼はドガと出会い、生涯続いた親交を結び、ドガからも強い影響を受け、二人の影響で、ポスト印象派的な画風を身に着けます。

結婚後はフランスで多くの時間を過ごしますが、離婚を機にイギリスへ戻り、1905年にはロンドンのカムデン・タウンにアトリエを構え、1911年、彼を中心にリュシアン・ピサロやオーガスタス・ジョンなど、総勢17人の当時の前衛画家達が集まり「カムデン・タウン・グループ」を結成。

当時のシッカートのコンセプトに基づき、都市の生活を、現実に即して美しくなく描くこと、つまりクールベの唱えたレアリスムに類似した事を目指したのですが、3回開催したグループ展は経済的には失敗。2年後には解散します。

短命に終わったグループでしたが、クールベがパリのサロンへ反抗したように、イギリス・ロイヤル・アカデミーの因習的な姿勢に対抗して、伝統的な美術様式を打破し、現代的で斬新なものを主張するモダニズムの始まりとして、イギリス美術史に大きな足跡を残したのでした。

シッカートは重要人物の肖像画も数多く手がけていますが、チャーチルの妻の親しい友人だったこともあり、1927年にはチャーチルの肖像画を描いており、これが縁でチャーチルに絵を教えることになり、チャーチルは妻に、「シッカートは私に画家としての新しい人生を貸与してくれている」と書いています。

シッカートは晩年をバースで過ごし、街の景観を多く描きながら1942年死去。ここにも「バースのロンドン通り、1941年」と題された絵が展示されていました。

シッカートは近年、スキャンダラスな話題を提供しました。

検屍官ケイ・スカーペッタをヒロインとするシリーズで世界的ベストセラー作家になったパトリシア・コーンウェルが、2002年と2017年、2回も、「真相-"切り裂きジャック"は誰なのか?」という本を出版し、ウォルター・シッカートこそが真犯人だと結論付けたのです。

“切り裂きジャック”は、1888年にイギリスで連続発生した猟奇殺人事件犯人の通称で、世界的に有名な未解決事件であり、現在でも犯人の正体については幾つもの説が唱えられているものです。

コーンウェルは7億円近いという私費を投じて、探偵や調査官を雇い、独自に綿密な調査を行った結果、上記の結論に至り、幾つもの事例を挙げてそれを証明しようとしています。

ただこの本に挙げられた物証が乏しいこともあり、反論もあるようです。

ともかくシッカートが切り裂きジャックに異常な興味を示していたのは事実で、カムデン・タウンでは切り裂きジャックが住んでいたという部屋の絵を描いたり、1907年にカムデン・タウンで起こった切り裂きジャックを彷彿とさせる猟奇殺人事件の絵を描いたりもしています。

いずれにしても、シッカートはイギリスや英語圏では非常にポピュラーで、多くの美術館が彼の作品を所蔵しています。