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美術館訪問記- 624 ホルバーン美術館、Bath

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:ホルバーン美術館正面

添付2:ホルバーン美術館内カフェ

添付3:ホルバーン美術館内部

添付4:レンブラント作
「羽毛付きの帽子を被った自画像」

添付5:デ・ホーホ作
「ゴルフ・プレイヤーズ」

添付6:アルベルト・カイプ作
「北側から見たドルドレヒトの眺め」

添付7:ゲインズバラ作
「婦人像」

添付8:ヨハン・ゾファニー作
「悲劇の主人公を演じるデイヴィッド・ガリック」

添付9:ヨハン・ゾファニー作
「シャーロッテ女王の肖像」

ロンドンの西160㎞足らずの所にバースという古都があります。

風呂や浴場として英語で使用されている通り、古代からの温泉地で2世紀頃、ローマの支配下で温泉の街として発展しました。

18世紀になってロンドンの貴族や富裕階層の保養地として大規模に再開発され、近隣の土地から産出した石灰岩による多くの美しい建物群が建ち並ぶ街です。

その町の高台にある一際目立つ3階建ての建物が「ホルバーン美術館」。

この建物は1799年に完成し、ホテルとして使用されていましたが、1916年から美術館として転用されています。

この美術館は兄と父の死で1820年に27歳で男爵家を継承したウィリアム・ホルバーンが31歳でイタリア、オランダを18カ月間グランド・ツアーして養った審美眼で収集した美術品を核にできています。

グランド・ツアーとは、17-18世紀のイギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った大規模な海外旅行をいいますが、次男でその機会がなかったウィリアムが、遅まきながら挽回したのでしょう。

3階建ての美術館は1階が売店とカフェ・レストランになっており、ホテル時代に造られた庭園が裏側に広がっています。

2階はクリスタル製の巨大なシャンデリアがあるかつてのボールルームで銀製品やミニアチュア製品。日本や中国、ヨーロッパの陶磁器、装飾品が、廊下の向かいには宝石やオランダ黄金時代の絵画作品が展示されています。

レンブラントが髪を長く伸ばし、何かの芝居の登場人物のような衣装を着けた29歳時の自画像があります。

風俗画を多く描き、フェルメールの師ではないかという説もあるデ・ホーホが茶目っ気たっぷりに描いた「ゴルフ・プレイヤーズ」という絵も面白い。

アルベルト・カイプの壮大な風景画もあります。

彼はオランダを広く旅して多くのスケッチを残していますが、イタリアから帰国した他の画家の影響を受けて1640年代中頃から、カイプより10年先輩のクロード・ロラン風の壮大で大気感が漂う詩情性豊かな理想的風景画を描くようになり、後に「オランダのロラン」と呼称されます。

カイプ自身は一度もイタリアに行った記録はないのですが。

特に早朝や夕暮れの輝く光の表現は秀抜で、18世紀末にはイギリスで高く評価されターナーにも強い影響を与えています。カイプの作品は世界中で見かけますが、特にイギリスでよく見ます。

3階はイギリスで活躍した画家たちの作品が展示されていました。

バースにゆかりのあるゲインズバラの作品が7点と最も多く、次いでヨハン・ゾファニーが6点、ラムゼイ3点、スタッブス、ジョセフ・ライト、アンゲリカ・カウフマンなどが続きます。

ゲインズバラは田舎の故郷から、上流階級の肖像画の需要が見込めるバースへ移り、彼等の所有するルーベンスやヴァン・ダイクなど一流画家たちの模写をして、ゲインズバラ独特の優雅で気品ある画風へ脱皮したのです。

ヨハン・ゾファニーは初出ですが、1733年ドイツ、フランクフルト近郊生まれで地元で修業後、1750年ローマへ行き、その後ヨーロッパを旅しながら見分と絵画技術を向上させ、1760年、ロンドンに落ち着きます。

喜劇と悲劇を巧みにこなし、当時大人気だった役者のデイヴィッド・ガリックが彼の腕を認め、自分を売り込むために、様々なポーズの絵を描かせるのです。

この一連のプロモーション作業は双方にメリットをもたらし、ゾファニーは時のシャーロッテ女王をパトロンにするまでになります。

彼の名声はヨーロッパでも高まり、オーストリアのマリア・テレジア女王からは男爵の貴族称号を得る程でした。

1810年に没しますが、彼の墓はゲインズバラの墓の近くに設置されました。

英語圏の美術館ではドイツ語名のヨハンではなく、英語表示のジョン・ゾファニーとされることも多いので注意が必要です。

ホルバーン美術館はロンドン外では最大数のゾファニー作品を所蔵しています。