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美術館訪問記−613 土門拳記念館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:酒田市美術館と土門拳記念館 写真:Googleサテライトマップ

添付2:土門拳記念館外観

添付3:亀倉雄策作
「銘板」

添付4:イサム・ノグチ作
「中庭」、中央の像は「土門さん」

添付5:勅使河原宏作
庭園「 流れ」 写真:土門拳記念館HP

添付6:土門拳記念館内部

添付7:土門拳記念館内部

添付8:土門拳記念館内部

酒田市美術館から東へ700m程、飯盛山公園の中心にあるのが「土門拳記念館」。

美術館建設と同時に生まれた人工の湖、拳湖のほとりに佇む1983年開館の日本で最初の写真美術館です。

花崗岩によって覆われた端正な構図の建物が湖に沿って水平に延びています。背後の森と水景、建築物が一体となって見事に調和しています。

谷口吉生の設計で、谷口曰く「美術館は内容を引き立てないといけません。だから建築はなるべく展示物の背景になるようにしています」

谷口はこの設計で1984年吉田五十八賞を受賞しました。

記念館の建設に当たって、土門拳と深い親交のあった芸術家たちが力を集結。グラフィックデザイナー亀倉雄策が入口正面に銘板とポスター・チケットを、彫刻家イサム・ノグチが中庭に彫刻とベンチを、華道草月流三代目家元勅使河原宏が和風庭園とオブジェを、それぞれに寄贈。

土門拳(どもんけん)は1909年、酒田市の生まれで、14歳で横浜第二中学校に入学し、画家を目指しますが挫折。中学卒業後、職を転々とした後、母の勧めで、24歳で宮内幸太郎写真場の内弟子となります。

26歳で名取洋之助主宰の日本工房に採用され、対外宣伝雑誌NIPPONを中心に、日本の海外紹介パンフレットの写真を撮影するようになります。

30歳で日本工房を退社、初めて室生寺を訪れ撮影。以後、ライフワークとなります。

その後は「絶対非演出の絶対スナップ」など独自のリアリズム論を提唱し、徹底したリアリズムにこだわった報道写真や、寺院仏像など日本の伝統文化を独特の視点で切り取った作品を発表し続け、写真界をリードする存在になります。

激動の昭和にあって、そのレンズは真実の底まで暴くように、時代の瞬間を、日本人の現実を、そこに流れる日本の心を捉えたと言えるでしょう。

1974年に酒田市初の名誉市民の称号を授与された土門拳は、顕彰式で「僕の全作品を酒田市に寄贈したい」と述べ、当時の相馬大作市長は土門の郷土愛に深く動かされ記念館建設のため奔走。

建設省によるカルチャーパーク(文化公園制度)第1号の適用を受け、更に全国に寄付を募り、集まった浄財は総額1億円余りにも達したのでした。

かくして7万点におよぶ土門作品の全てを所蔵している土門拳記念館が完成。しかし土門拳は1979年、脳血栓で倒れ、以後、意識不明の状態が続いたまま1990年死去しています。享年81。

湖に浮かぶように佇む美術館のシルエットが周囲の景色の中に溶け込むのを愛でながら館に入ると、土門のライフワークだった「土門拳の室生寺」展開催中。

土門拳記念館のキャッチコピーは「写真は、肉眼を超える」。

私はこれまでの美術館訪問記で写真を採り上げたことがない事でもおわかりのように写真にはあまり興味がなく、自撮の写真も携帯に便利で簡便なコンパクトカメラで撮影して来たものです。

従って写真の良し悪しの判断はつかないのですが、少なくとも土門拳の写真にかける熱情と真摯さ、それらからくる迫力には感じ入りました。

なお、この記念館は「作品の接写は不可だけど、館内の撮影はOK」ということで添付写真は2点、記念館ホームページから借用しました。



(添付9:土門拳撮影「室生寺弥勒堂釈迦如来坐像左半面相」は著作権上の理由により割愛しました。
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