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美術館訪問記ー611 山寺 後藤美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:天童市歩道上絵プレート

添付2:天童市歩道上詰将棋

添付3:山寺遠望

添付4:山寺 後藤美術館前景

添付5:山寺 後藤美術館内部

添付6:コロー作
「サン=ニコラ=レ=ザラスの川辺」

添付7:ジュール・デュプレ作
「森の中の川で水を飲む牛」

添付8:ディアズ作
「ハーレムの女たち」

添付9:コンスタブル作
「グルーズ作「少女と鳩」の模写」

前回の天童市の街をそぞろ歩いていると、歩道に「市の鳥 ホオジロ」という絵プレートが埋まっていました。他にも「市の木」や詰将棋が埋まっています。流石将棋の街天童市。添付図は簡単ですが、レベルの高いものもありました。

天童市から南東に7㎞も行くと「山寺 後藤美術館」があります。

ジュエリーの販売で財を成した実業家後藤季次郎のコレクションを展示しており、松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句で知られる山寺立石寺と対面する美しい環境と豊かな白然に囲まれた美術館です。1994年開館。

私は朝一番の美術館へは余裕を見て早めに着いて開館を待つようにしていますが、この日も9時過ぎに美術館横の駐車場に停めて車内からの眺望を楽しんでいました。

宝珠山立石寺は860年清和天皇の勅願によって慈覚大師が開いた、天台宗のお寺で対面する険しい山肌に張り付くように幾つものお堂が立ち並んでいます。あのような切り立った崖の上に機材もない昔、どのように建立されたのか。

すると中年女性が車のドアをノックして「9時半開館ですよ」と言います。承知で早めに来て待っている宗告げると、9時20分には開館しましたと、わざわざ教えに来てくれました。

美術館まで共に歩きながら、東北地方の美術館巡りをしている事を話すと、次はどこへ行くのかと聞くので、諸橋近代美術館と言うと、無料の招待券をくれました。

山寺後藤美術館宛のものでしたが、行く人もいないのでという事でした。しかも800円の入場料が山形県の地域経済回復キャンペーンで550円になり、1800円の美術館本も1050円で買えたのです。

後でチェックすると、このキャンペーンの対象者は山形県民に限られるとありましたが、小生の人徳で目を瞑ってくれたのでしょう。

諸橋近代美術館の入場料が1300円ですから、ここだけで2300円助かりました。早起きは三文の得といいますが、こういう事もあるのです。

展示室は縦長の広い一室と入口傍の小部屋のみですが、ヨーロッパ絵画のコレクションが18世紀から19世紀の印象派手前まで厚みがあり、質が高い。鄙には稀の感を強くしました。

特にバルビゾン派の作品は「バルビゾンの七星」と称えられるテオドール・ルソー、ミレー、コロー、ジュール・デユプレ、ディアズ、トロワイヨン、ドービニーが全て複数点揃っており、その他のバルビゾン派の画家たちも含め見応えがあります。

ジュール・デュプレはまだ説明していませんでした。

彼はフランス、ナントで、1811年磁器工場の経営者の息子に生まれ、磁器の絵付け職人としてキャリアを始め、1823年にパリに出て、叔父の所有する磁器工場で働きながら絵を学びました。

風景画家を志し、独学でオランダ風景画を学んでいる時に、ロマン主義のドラクロワと知り合い、彼の勧めもあって1834年にはイギリスへ旅行し、1824年のパリのサロンで金賞を受賞し、ドラクロワも感嘆した、風景画を描いたジョン・コンスタブルの影響を強く受けています。

同じ頃、パリ近郊のフォンテーヌブローの森周辺に集まったミレーやテオドール・ルソーら、バルビゾン派の画家たちとも親交を深め、17世紀オランダ風景画の研究に裏付けられた安定した構図法やロマン主義的自然表現は画壇でも認められ、1849年にサロンで1等賞を獲得しています。

ゴッホは生涯819通の手紙を残していますが、それらの中で合計60回以上デュプレに触れ、ダイナミックで緊張感溢れるデュプレの作品を称賛しています。

ジュール・デュプレが手ほどきして同じような絵を描く弟のレオン=ヴィクトール・デュプレ(1816-1879)と、二人には無関係で農村風景を多く描いたジュリアン・デュプレ(1851-1910)という三人のデュプレ姓のフランス人画家がいるので、混同しないよう注意が必要です。

ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ(1807-1876)、通称ディアズも初出です。

彼はジュール・デュプレとパリの磁器工場の同僚で、絵付け職人たることに飽き足らず、ともに絵画の道を志したのです。

父はスペインの富商でしたが、政治罪に問われて国外追放になり、亡命途中のボルドーでディアズが生まれているので、スペイン系のフランス人です。

10歳で孤児になりますが、13歳の時森の中で毒蛇に咬まれて片脚を失っています。彼は再三の不幸にもかかわらず、機知に富む陽気な青年に成長していったのです。

1831年頃テオドール・ルソーに会い、ルソーから樹木の描き方などの技術指導を受け、5歳年下のルソーを唯一の師匠として生涯尊敬してゆくことになります。

ディアズの強みは陶磁器の絵つけ職人の経験で絵皿や壺などの絵から、当時、流行した18世紀のロココ様式を学んでいたことで、風景画にロココ的な雅宴画やオリエンタリスムを組み合わせ、人気を博しました。

添付の「ハーレムの女たち」もそのような傾向の作品で当時のオリエンタリスム(東方趣味)の高まりの中で強い好奇心の対象となった中東のサルタン(王)の後宮の女性たちを描いています。

一見グルーズの作品かと思い、作者名がコンスタブルとなっているのに驚いた作品がありました。それもその筈、その絵はコンスタブルによるグルーズ作品の模写だったのです。

ロンドンで展示中の原画を観たコンスタブルの親類のジャクソン夫人は主題の少女が、離婚した夫に親権を奪われ会えなくなった娘に似ていたことからコンスタブルに模写を依頼したのでした。

前にも書きましたが、人物画の下手なコンスタブルも模写ならこれだけ上手く描けるのだと変に感心したものでした。

他にもブーシェやムリーリョ、ラルジリエール、カバネル、ブグロー、クールベ、ジョン・エバレット・ミレイなどの絵画や彫刻作品もそこそこあり、ガレやドーム兄弟などのアール・ヌーヴォーのガラス器もありました。

入口横の小部屋に19世紀にドイツで作成されたという陶板画が10点程あり、言われなければ油彩画と思う、文句のつけようのない出来でした。19世紀にこれだけの陶板画技術があったとは知りませんでした。

ここは残念ながら撮影禁止で内部の写真は美術館のホームページや「山寺 後藤美術館所蔵 ヨーロッパ絵画名作展」という美術館本から借用しました。陶板画の写真はどこにも見つかりませんでした。