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美術館訪問記ー610 天童市美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:天童市美術館前景

添付2:上村松園作
「美人詠哥」

添付3:佐伯祐三作
「扇を持つ婦人像」

添付4:天童市美術館入り口前の看板

添付10:天童市美術館内

前回の山形市の北北東12㎞程のところに天童市があります。人口約6万2千人。

この市の中心、市役所や市民文化会館、市立図書館などが並ぶ一角にあるのが「天童市美術館」。

前回の山形美術館は民間主体ですが、こちらは市立美術館で1990年、山形県内初の公立美術館として開館しています。

天童市周辺地域で活躍した作家の作品を中心に所蔵展示していましたが、1902年に上村松園や加山又造、橋本雅邦、速水御舟、東山魁夷、安田敦彦、横山大観など錚々たる顔ぶれの吉野石膏コレクション日本画の寄託を受け、洋画の山形美術館、日本画の天童市美術館として並び立つ存在になっています。

吉野石膏コレクション寄託は日本画だけに留まらず、梅原龍三郎や岡田三郎助、小磯良平、児島善三郎、佐伯祐三、坂本繁二郎、中川一政、林武、安井曾太郎などの日本人画家の洋画も含まれています。

また天童市出身で、13歳で単身上京し自転車屋の小僧から出発して、日本初のピアノ線製造などで財を成した実業家村山祐太郎が、37歳で出合った後、生涯の親交を結んだ熊谷守一のコレクション29点の寄贈も受けています。

私が訪れた2020年10月10日は「生誕140周年 熊谷守一展」と題した特別展開催中。1階に1室、2階に2室の小規模な美術館で、この日はそれら全てが特別展に使用され常設展示は一切ありませんでした。

もっとも油彩画、日本画、書の約200点もの展示中の熊谷守一作品の内、29点は普段は常設展示されている村山祐太郎コレクションで、他に天童市美術館の購入品や寄託品23点も含まれていました。

熊谷守一は1880年、岐阜県の裕福な家庭の生まれ。幼少時から絵が好きで、跡を継がせたい父の願いとは裏腹に画家を志し、1900年、東京美術学校西洋画科に入学、首席で卒業しています。同期に青木繁、和田三造らがいます。

しかし父の急死により生活が困窮。絵では食べて行けず樺太漁場調査隊の写生係や、故郷に戻り渓流で木材を運ぶ運搬業などのアルバイトも経験しています。

42歳で結婚し5人の子供に恵まれますが、貧困のため医者にも見せられず結核などで3人の子供を亡くしています。

戦後になって単純な形態と明快な色彩によって構成される「モリカズ様式」とも呼ばれる画風を確立。70代で漸く世に知られることになり、成功します。

しかし76歳で軽い脳卒中で倒れ、以降、写生旅行を断念し、30坪もない鬱蒼とした自宅の庭で、自然観察を楽しみながら身近な動物や植物、身の回りのものを深い洞察力をもって描き、独自の画業を発展させました。

87歳で「これ以上人が来てくれては困る」と文化勲章の内示を辞退したりして「画壇の仙人」、「超俗の人」など、世俗から離れたイメージの熊谷は、明治、大正、昭和を貫いて97歳で亡くなる数ヶ月前まで書や墨絵を描きました。

平明かつ鮮やかな色面で対象の本質を捉えた独自の絵と、力みのない自然な書は、今なお多くのファンの心を捉え続けています。

展示作品写真は天童市美術館のホームページとこの展覧会のために出版された「熊谷守一 わたしはわたし」(求龍堂)から借用しました。



(添付5:熊谷守一作「村山祐太郎像」 1947年、添付6:熊谷守一作「富士山」1958年、添付7:熊谷守一作「稚魚」1958年、添付8:熊谷守一作「兎」1965年 および 添付9:熊谷守一作「天地自在」1950年 は著作権上の理由により割愛しました。
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