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美術館訪問記- 607 萬鉄五郎記念美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:萬鉄五郎記念美術館前景

添付2:萬鉄五郎作
「裸体美人」 東京国立近代美術館蔵

添付3:萬鉄五郎作
「心象風景」

添付4:萬鉄五郎作
「もたれて立つ人」 東京国立近代美術館蔵

添付5:萬鉄五郎作
「湘南風景・茅ヶ崎」

添付6:萬鉄五郎作
「七福神の面の一部」

添付7:萬鉄五郎作
「口髭のある自画像」

添付8:萬鉄五郎記念美術館内部

岩手県盛岡市から南へ35㎞程に花巻市があり、ここにあるのが「萬鉄五郎記念美術館」。

美しい田園が広がる花巻市東和町の丘の上の旧土沢城内にあるこの美術館は、1984年に地元住民の熱烈な運動の末に建てられた瀟洒な2階建て。

開館時の収蔵作品は5点のみだったそうで、以来、住民が作品を購入しては美術館に寄託、予算が付けば町が購入。現在、遺族の協力も得て、萬の油彩画、水墨画、素描などの作品と、書簡、写真や遺品など、この画家に関する資料250点余りを収蔵するまでになっています。

萬(よろず)鉄五郎は1885年、花巻市東和町土沢に生まれ、幼少期より水墨画を、16歳の時に大下藤次郎の手引書により水彩画を独学で始めています。

1903年、中学入学のために上京。禅宗の寺で参禅するようになり、卒業後の1906年、布教活動のための禅宗の一団に加わって、アメリカに渡り、実はサンフランシスコの美術学校で本格的な画家修業を目指すのですが、同年のサンフランシスコ地震で生活が困難になり、数ヶ月で帰国しています。

第106回で詳述した国吉康雄も1906年、無謀にも単身渡米していますが、この頃、日本の若者を突き動かす衝動のようなものがあったのでしょうか。

帰国後、東京美術学校(後の東京藝術大学)西洋画科に入学。1912年、美術学校の卒業制作として「裸体美人」(東京国立近代美術館蔵)を提出。

110年後の今もなおインパクトのある凄い絵です。当時の黒田清輝などの教授陣が理解できず、入学時は主席だった萬に19人中16位という低評価を与えたのは無理もないかもしれません。

当人が「ゴッホやマティスの感化のあるもの」と述べているように、炎のように揺れ動く下草の描き方にゴッホを、剛直な筆致で単純化された裸婦にマティスを感じるのは否めないにしても、まるで空中に浮遊するような女体を迎角的に見た構図、頭上の赤い雲、補色を多用した色彩など、萬の持つ元始的なエネルギーが迸る日本美術史上画期的な傑作です。

同じ頃描いた「心象風景」という抽象画がここにありましたが、カンディンスキーが世界初という油彩の抽象画を描いたのが1911年ですからわずか1年後に遠く離れた日本で抽象表現をしているのは驚異的です。なお、抽象画とは具体的な対象物を持たない絵のことです。

1914年、故郷の土沢に帰り、美術動向とは無縁の地で隔絶した状況に身を置き、キュビスム的な実験を試みます。その後再び上京し、1917年の二科展で「もたれて立つ人」を発表します。

萬のキュビスムを代表するこの絵とフォーヴィスム的な「裸体美人」2点だけは東京国立近代美術館の所蔵品のため、この美術館には複製画が展示されていました。

萬は神経症から1919年、神奈川県茅ヶ崎に転居します。まもなく画風が変化し始め、関心も次第に日本の伝統絵画に向かいました。油彩画のほかに南画を描き、伝統美術の解釈は彼の洋画にも反映しました。

1926年頃描かれた「湘南風景・茅ヶ崎」では軽妙な曲線で形づくられた空に浮かぶ雲や木々の葉は、軽やかでリズミカルな筆のタッチで描かれ、日本の文人画の影響が色濃く見られます。

1927年、結核のため同地で死去。41歳の短い人生でしたが、日本近代美術の先駆者として駆け抜けた逸材でした。

萬鉄五郎記念美術館に入ると、一室のみの1階は現代美術の企画展開催中。

2階の広めの一室には萬鉄五郎作品27作と素描1点、前述の複製画2点が展示されていました。小さめのもう一室には萬のスケッチブックや萬鉄五郎作の七福神の面などが展示中でした。

萬は、前回の「赤い目の自画像」を始め生涯を通じて多くの自画像を制作しました。

ここにある「口髭のある自画像」は、1914年作ですが、棟方志功愛蔵品で、棟方は「私は萬鉄五郎に首ったけ惚れているのだ。仕方ないほど参っているのだ」と書いています。

ゴッホにあこがれ画家を目指して上京した棟方が、初めて入選を果たした春陽会展会場で、奇しくも「萬鉄五郎遺作展」が開催されていました。棟方の奔放な表現性には萬のそれと通じるものをがあり、作品に漂う土着的な匂いにも共通するものを感ぜずにはいられません。

萬鉄五郎記念美術館の隣に萬鉄五郎生家の土蔵「八丁蔵」が移築されており、その1,2階に一室ずつ小展示室があり、企画展が開催されていました。1階の半分はカフェになっており、萬鉄五郎の熱気を冷ますのには好都合。