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美術館訪問記- 605 秋田県立近代美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:秋田県立近代美術館横面
写真:秋田県立近代美術館HP

添付2:秋田県立近代美術館前の彫刻広場

添付3:秋田県立近代美術館アトリウム
写真:秋田県立近代美術館HP

添付4:シースルー・エスカレーター

添付5:平賀源内作
「西洋婦人像」
神戸市立博物館蔵

添付6:小田野直武作
「不忍池図」

添付7:佐竹曙山作
「松に鶴図」

添付8:田代忠国、佐竹義躬合作
「紅毛玻璃器図」

秋田市から南東に60㎞程の人口8万5千人余りの秋田県第2の都市、横手市には「秋田県立近代美術館」があります。

秋田県の魅力を紹介する県立の観光テーマパーク「秋田ふるさと村」敷地内にあり、建物は地域のシンボルとして丘上に浮かんでいるように見えます。1994年開館。

美術館周辺には「彫刻広場」「彫刻の小道」「彫刻の丘」があり、屋外でも彫刻を楽しめます。

彫刻が立ち並ぶ彫刻広場を抜けると大理石の壁に囲まれたアトリウムが広がります。マイヨール作の「囚われのアクション」が中央に展示されており、ここから美の空間へと入っていくワクワク感がつのってきます。

展示室のある5、6階へ続く長いシースルー・エスカレーターに乗ると、ますますその気分が増長される感があります。

この美術館には前回名前を出した秋田蘭画が多く所蔵されています。

秋田蘭画が誕生する契機となったのは、1773年、秋田を訪れていた平賀源内が、秋田藩士小田野直武を見出したことによります。源内は直武の非凡な画才に感嘆し、洋書の挿絵を示しながら、直接洋画法を伝授したといいます。

発明家、本草学者、地質学者、浄瑠璃作者など多彩な肩書きを持つ博学の奇才、平賀源内は、長崎で西洋画法を学んでおり、洋風画開拓者の顔も持っていました。

長崎滞在中に描いたと思われる油彩画「西洋婦人図」は、現在残されている源内の唯一の洋風画です。

源内に見初められた直武は、その年のうちに藩命により江戸に上り、源内の下で本格的に西洋画法を学ぶことになります。

源内の周辺には多くの蘭学者や画家がおり、そのネットワークのなかで、翌年には杉田玄白らによる西洋医学書の解体新書の挿絵を担当しています。

直武は源内から得た知識を、秋田藩主の佐竹曙山に伝え、この二人を中心に、角館城代の佐竹義躬、直武とともに源内から直接指導を受けたとされる秋田藩士の田代忠国らが集い、洋風画派「秋田蘭画」が形成されていったのです。

ところが、1789年、源内が殺人の容疑で投獄され、獄中で死去。翌年には直武が32歳で没し、その5年後には曙山も死去します。

創始に関わった人物の相次ぐ死により、秋田蘭画は、昭和に入って再評価されるまで忘れられた存在になってしまうのです。

しかし、直武に学んだとされる画家、司馬江漢が後に銅版画と油彩画のジャンルを切り開き、現代の洋画へとつながる大きな一歩を踏み出して行きます。

この美術館には小田野直武の代表作で重要文化財指定「不忍池図」があります。西洋美術の遠近法と影の表現を取り入れた作品ですが、池は水平方向から、植木鉢は上からと、複数の視点を一枚の絵にまとめています。

複数視点を絵画に導入して近代絵画の父といわれるセザンヌよりも100年近く前に既に複数視点を取り入れた画家が日本にいたのです。日本の洋画の始まりを感じさせる傑作です。

添付の「紅毛玻璃器図」は田代忠国と佐竹義躬の合作とされる絵で西洋の玻璃器(はりき;ガラス器のこと)と果物を忠国が、ランを義躬が描いた。果物を盛る器は文人趣味の価値観を示すとされ、東西が入り混じった豊かな文化相がうかがえます。

前回触れた小西正太郎の作品や藤田嗣治の油彩画が5点もありました。この美術館は撮影可なのですが、藤田作品だけは撮影禁止で、インターネット上にも映像は見つかりませんでした。



(添付9:小西正太郎作「婦人肖像」は著作権上の理由により割愛しました。
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