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美術館訪問記- 604 秋田市立千秋美術館

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:秋田市立千秋美術館入居のアトリオンビル 写真:秋田市立千秋美術館HP

添付2:秋田市立千秋美術館入口

添付8:小田野直武作
「児童愛犬図」

添付9:秋田市立千秋美術館内 写真:秋田市立千秋美術館HP

前回の秋田県立美術館から秋田駅方面へ200mも行くと「秋田市立千秋美術館」があります。

この美術館は平成元年の秋田市制施行100周年を記念し、岡田謙三夫人からの岡田作品の油彩画だけでも95点という大量寄贈の申し出を契機に、現在の場所に移転し都市型の美術館へと再スタートしたもので、前身は1958年開館の秋田市美術館。

街中のアトリオン・ビルディング内にあり、1階にティケット売り場と売店、2,3階が展示室となっており、岡田謙三記念館も併設しています。

岡田謙三は1902年、横浜市の生まれで、東京美術学校西洋画科に入学。同級生に荻須高徳や小磯良平、猪熊弦一郎などがいました。

しかし入学2年後の1924年、同級の高野三三男の誘いでパリに渡り、当時エコール・ド・パリの中心人物となっていた藤田嗣治やキスリング、ジャコメッティなどと親交を結びます。

特に藤田とは生涯を通じた付き合いで、後に、秋田市の平野政吉美術館で大量の藤田作品に出合った、未亡人となっていた岡田きみ夫人が、所持していた岡田作品の秋田市への寄贈を決意した要因となっています。

1927年帰国し、エコール・ド・パリで吸収した都会的な雰囲気や、甘美でそこはかとなく漂う哀愁を感じさせる表現で人気作家となっていきます。

終戦後も画壇で揺るぎない地位にあった岡田ですが、1950年、ポロックやロスコらの抽象表現主義が盛んだったニューヨークに渡ります。

2年余の試行錯誤の後独自の表現を生み出し、1953年には当地で初の個展も開催。

岡田の詩的で抒情性に満ちた抽象画は注目を浴び、日本の伝統的な美意識を基にしたその作風に自ら「幽玄主義(ユーゲニズム)」と名付けています。

1958年のヴェネツィア・ビエンナーレや1960年のフォード財団の美術賞受賞など主要な国際展で受賞を重ね、国際的な作家としても高く評価されて行きます。

1960年以降は度々アメリカと日本を往復しながら制作を続け、具象・抽象、東洋・西洋といった異なる様式や文化が融合された「幽玄主義」、つまり画家としての生涯をかけて至った自在なる境地を表現し続けながら1982年目黒区自由が丘の自宅で死去します。

岡田謙三の作品は日本人洋画家としては例外的に、日本の美術館は勿論、アメリカのニューヨーク近代美術館やメトロポリタン、グッゲンハイム、ホイットニー、ブルックリン、オルブライト=ノックス、フィラデルフィア、セントルイス、サンフランシスコ、ボストン美術館等に所蔵されています。

尤も岡田はアメリカ国籍を収得しているので、米国の美術館では、アメリカ人女性と結婚していたにもかかわらず、米国滞在時期が悪く、生涯アメリカ国籍を収得できなかった国吉康雄同様、アメリカ人扱いですが。

1876年秋田県の生まれで、東京美術学校で黒田清輝の下で学び、病気のため帰郷して教職に就いたりしたものの、絵画への情熱が再燃し、1922年、美術学校時代の友人とパリに渡った小西正太郎の代表作「赤い着物の女」も展示されていました。

他にも江戸時代後期に西洋の写実画法を学んで取り入れた洋風画・秋田蘭画を確立させた佐竹曙山、小田野直武らの作品、日本画の平福穂庵・百穂父子、寺崎廣業、写真家の木村伊兵衛など郷土ゆかりの作家作品を展示しています。

ここも撮影禁止で展示作品の写真は美術館のホームページからの借用です。



(添付3:岡田謙三作「花」1927年、添付4:岡田謙三作「室内」1936年、添付5:岡田謙三作「花」1954年 、添付6:岡田謙三作「春」1979年および 添付7:小西正太郎作「赤い着物の女」は著作権上の理由により割愛しました。
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