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美術館訪問記- 597 アヴィニョン教皇庁宮殿、Avignon

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:アヴィニョン教皇庁宮殿外観

添付2:アヴィニョン教皇庁宮殿入り口

添付3:アヴィニョン教皇庁宮殿内部

添付4:大広間

添付5:教皇専用礼拝堂

添付6:シモーネ・マルティーニ作
剥離フレスコ画

添付7:鹿の間の作者不詳のフレスコ画
写真:Creative Commons

添付8:宮殿屋上のマリア像

添付9:宮殿屋上からの眺め、中央にあるのは次回のプティ・パレ美術館

マルセイユの北西100㎞足らずの所に古都アヴィニョンがあります。

アヴィニョンというと真っ先に「アヴィニョン捕囚」を思い浮かべる方が多いでしょう。キリスト教のカトリック・ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移されていた時期(1309年-1377年)を指すのですが、捕囚という言葉の持つ捕虜状態とは全く違います。

教皇がアヴィニョンから出れらないとか、ましてやアヴィニョンで軟禁状態にあった訳ではなく、アヴィニョンは教皇領であり、貴族やローマ市民の影響を受けるローマとは違い、君主として豪勢な生活を送ることができ、もちろん自由に教皇として各地を訪問して活動することができたのです。

アヴィニョン捕囚の背景には教皇とフランス国王との対立があります。

教皇の権威はヨーロッパ諸国のパワー・バランスの上に成り立っていたのですが、14世紀初にはフランス国王の勢力が突出し、フランス国内の教会への課税を巡って国王と教皇の対立が勃発した時、教皇を支援しうる勢力はなかったのです。

このため、時の教皇ボニファティウス8世がフランス軍に追われて、生まれ故郷の山間の小都市アナーニに逃げ込んだものの、捕らえられ、何とか救出されたものの、68歳の教皇はこの一連の事態に怒りと失望で傷心し、3週間後に死亡するという、所謂「アナーニ事件」が起こります。

フランスの強い影響により、教皇に選ばれたフランス、ボルドー在住だったクレメンス5世はリヨンで就任し、貴族間の抗争が激化していたローマに行くことを避け、シチリア王領(フランスの勢力圏下でもある)であったアヴィニョンに1309年、居を構えたのでした。

1377年までのアヴィニョン捕囚期には多くのフランス人枢機卿が新たに任命され、この間の7代の教皇は全てフランス人でした。1348年、クレメンス6世はアヴィニョンを買収、教皇領に組み入れており、フランス革命で没収されるまでアヴィニョンは教皇領だったのです。

クレメンス5世はドミニコ会修道院に仮住まいしていましたが、歴代の教皇は、アヴィニョンに城砦風の大宮殿と市街を取り囲む城壁の建造を進め、難攻不落を目指した教皇領都市を完成させます。

アヴィニョン教皇領は、百年戦争であえぐフランス王国の窮乏を尻目に、全く対照的な隆盛と繁栄の時を迎え、優美なパリ風の宮廷文化が花開き、当時のヨーロッパ文化の一大中心地となり、栄えたのでした。

「アヴィニョン教皇庁宮殿」が往時を偲ぶよすがとして今に残っています。

高さ50m、厚さ4mという堅牢な外壁で囲まれた教皇庁宮殿全体の面積は15,000㎡もあり、ヨーロッパ最大となるゴシック様式の宮殿で、見学可能。

教皇がアヴィニョンを去った後、この宮殿は軍隊の兵舎や監獄として使用されたのち、1906 年に博物館となりました。入館時に日本語オーディオガイドを無料で貸してくれます。

中には当時の栄華を伝える大広間、礼拝堂、内庭回廊、フレスコ画で飾られた教皇の私室などが一般公開されています。

往時は随分と豪華だったのでしょうが、教皇がローマに移って後の火災や、フランス革命の際の破壊などで、内部はただ広いだけのがらんどう。

美術品はシモーネ・マルティーニの剥離フレスコ画と鹿の間という小さな部屋にある作者不詳のフレスコ画が目に留まった程度でした。

ただ要塞のように聳え立つ宮殿の最高部に金色に輝くマリア像があり、カフェのある屋上からアヴィニョンと対岸のヴィルヌーヴ・レザヴィニョンの街が一望できるのが救いでした。