戻る

美術館訪問記- 593 サン=ラザール大聖堂、Autun

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:今に残るオータンの城壁
写真:Creative Commons

添付2:サン=ラザール大聖堂西側側面

添付3:サン=ラザール大聖堂ファサード

添付4:タンパンと中央柱像

添付5:ジルベール作
「エジプトへの逃避」
写真:Creative Commons

添付6:ジルベール作
「東方三博士の礼拝」
写真:Creative Commons

添付7:サン=ラザール大聖堂内部

添付8:後陣

添付9:アングル作
「聖サンフォリアンの殉教」

パリの南東約250kmの所にローマ時代からの古都、オータンがあります。

オータンの街は、紀元前15年頃、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスによって建設され、アウグストドゥヌム(アウグストゥスの町の意)と名付けられます。これが長い年月の間に転訛して現在のオータンという呼び名になったのです。

4つの城門と、54もの塔を持つ全長6kmにも及ぶ城壁に囲まれた、劇場、円形競技場、神殿などを備えた、ローマのライヴァルとも言われた大都市でした。

現在もかなりの部分が残る、それらの遺構で当時の様子が偲ばれますが、これらは、征服したばかりのガリア人を服従させるために、ローマ文明の力を誇示する必要があったからです。

オータン旧市街は緩やかな登り坂に広がっており、街の南端に位置する「サン=ラザール大聖堂」は、どの方角からも見えるひと際高い塔を備えています。

サン=ラザールとはキリストが墓から蘇らせたという聖ラザロのことで、キリストの死後、姉のマグダラのマリアと共に船でイスラエルから逃れ、没したマルセイユに葬られていた聖ラザロの聖遺物がこの地に運ばれ、1130年、聖ラザロを祀る聖堂として献堂されたのがこの大聖堂。

聖ラザロの遺骨を安置した教会として、中世より多くの巡礼者が訪れる大聖堂は、当初ロマネスク様式でしたが、15世紀の火災の後、ゴシック様式として再建され、ファサードの2つの鐘楼は、1858年再建されています。

ただ、外観の一部にはロマネスク様式が残り、正面入口のタンパン彫刻と身廊内部の柱頭彫刻などにもロマネスク様式がそのまま残っています。

大聖堂は通常のように東向きには建てられておらず、ファサードは北側にあります。

重厚な造りの正面入り口のタンパン(入り口上部半円形の部分)には、「最後の審判」の浮彫があり、その下の柱には中央に聖ラザロ、その左右に聖ラザロの二人の姉、マルタとマリアが彫られています。

この「最後の審判」はロマネスク美術の至宝と言われ、「エジプトへの逃避」や「東方三博士の礼拝」等の柱頭彫刻群と併せ、12世紀の創建時に彫刻家ジルベールが制作したものです。

当時、作者名が判っているのは大変珍しいのですが、浮彫のキリストの足下にGISLEBERTUS HOC FECIT(ギスレベルトゥスこれを作る)とラテン語で署名が彫られているのです。

構図は、中央に審判者である巨大なイエス・キリストが君臨し、世界の終わりに、全ての生者と蘇された死者が裁きを受ける、という場面。

このタンパンは、粗野で原始的と評価した参事会員らによって、1766年に漆喰で埋められましたが、おかげでフランス革命時の破壊行為を免れ、漆喰の覆いが取り払われた1837年に元の姿を現したのでした。

大聖堂内部は、側廊のある三廊式で、高い天井と広い身廊から構成されています。

一つ一つの柱には柱頭彫刻が施されています。何時観てもロマネスク彫刻の素朴な味わいは人を和ませるものがあります。

入口近くにアングルの「聖サンフォリアンの殉教」がありました。

407 x 339cmの大作で、アングルが18年間の長期ローマ滞在からパリに戻った、1824年から1834年まで10年間かけて制作したものです。オータンの司教、モンシニョール・ド・ヴィシーからの依頼でした。

サンフォリアンはオータンの貴族の息子でしたが、キリスト教に帰依し、異教の女神キュベレーの寺院でひれ伏すように命じられたのに従わず、西暦178年、斬首されてしまうのです。ヨーロッパでは早期の殉教者の一人です。

画面左上から彼の母親が、息子に自分の信ずる道を貫くよう激励しています。

アングルは自己の最高傑作と自信を持って1834年のサロンに提出したのですが、母親の手が長すぎて解剖学的におかしいとか、虫眼鏡を通して見た筋肉だとか、構成要素がバラバラで部分部分の寄せ集めだとか、酷評を浴び、おまけにサロンでは4頭の実物大の牛の絵の下に展示され、憤慨して、再びローマに逃げ出します。

この絵そのものは1834年11月にこの大聖堂に納入されています。

アングルは、1841年にはパリに戻ってきますが、1834年以降2度とサロンには自作を提出せず、公的注文も受け付けませんでした。