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美術館訪問記- 587 アントワーヌ・レキュイエ美術館、Saint- Quentin

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:アントワーヌ・レキュイエ美術館外観
写真:Creative Commons

添付2:アントワーヌ・レキュイエ美術館内部
写真:Creative Commons

添付3:ロザルバ・カッリエーラ作
「夏」
バンベルグ財団美術館蔵

添付4:モーリス=カンタン・ド・ラ・トゥール作
「ジャン=ジャック・ルソー」

添付5:ラ・トゥール作
「ポンパドゥール夫人の肖像」
ルーヴル美術館蔵

添付6:ラ・トゥール作
「ポンパドゥール夫人」

添付7:ラ・トゥール作
「アッベ・ジャン=ジャック・フーバー」

添付8:ルノワール作
「アメリー・ディターレ(女優)」

前回のアミアンから東へ70㎞程の所にサン・カンタンという街があります。市名は3世紀に殉教した聖カンタンに基づく人口5万4千人足らずの市です。

この街の中心近くにあるのが「アントワーヌ・レキュイエ美術館」。

裕福な銀行家アントワーヌ・レキュイエが彼の邸宅とコレクションを1876年、市に寄贈して出来た美術館で、1917年、第一次世界大戦で完全に破壊されたのですが、1928年から1932年にかけて復元されたものです。

館内には前回触れたモーリス=カンタン・ド・ラ・トゥールのパステル画が実に82点も展示されていました。パステルでここまで描けるのかという真にパステルを極めた達人の芸を堪能しました。

モーリス=カンタン・ド・ラ・トゥールは当地、サン・カンタンで1704年、中流階級の一族の息子の一人として生まれ、幼少の頃から絵画に興味を示し、15歳でパリに出て絵師の下で修業し、18歳で故郷に戻ります。

1725年、彼の肖像画を気に入ったイギリスのホレス・ウォルポール伯爵に招かれ、ロンドンの彼の宮殿内に滞在して上流階級の肖像画を描く生活を2年間経験後パリに戻り、当時フランス国内で大流行していたイタリアの女流パステル画家ロザルバ・カッリエーラの作品に触れ、大きな衝撃を受けるのです。

以後、独学でパステルの描写手法を研究し、独自的なパステル表現を確立。貴族階級の人々や哲学者など知識人たちの肖像画を手がけていきます。

パステルは、乾燥した顔料を粉末状にし、粘着剤で固めた画材のことで、パステルカラーと呼ばれる明るい中間色の美しい絵が描けます。

油絵や水彩絵の具のようにパレット、筆、絵の具を溶かす水や油も不要で、絵の具が乾く時間を待たなくても重ね塗りができるなど、手軽に絵画を楽しめます。

1735年に描いた「ヴォルテールの肖像」で名声を確立。1746年、パステル肖像画家として王立絵画・彫刻アカデミーの会員となります。

ラ・トゥールの描くパステル独特の軽やかで速筆的な質感や、繊細で柔らかな表現、輝きを帯びた色彩を用いて制作された肖像画は、軽やかに宮廷生活を謳歌するロココ様式の精神性や表現手法とよくマッチし、当時の人々に多大な称賛を以って迎えられたのでした。

特に1755年に描いた「ポンパドゥール夫人の肖像」は、ロココ美術を軽佻浮薄と痛烈に批判した、「百科全書」で有名なディドロさえもが「この人物には肉感があり、生命がある」と絶賛した名画です。

国王ルイ15世の寵愛を一身に集め、国政まで牛耳ったポンパドゥール夫人は才気煥発で、芸術の庇護者として当時の美術の動向に深くかかわった女性でした。

この作品でも、彼女が手にした楽譜、テーブルの上の地球儀や革表紙の分厚い書物、テーブルの上から垂れ下がった夫人自らの作である版画、床の上のスケッチブックなど、彼女が、美貌のみならず、音楽、地理、文学、美術などの幅広い教養と識見を持つ女性であることを明示しています。

1784年、80歳になったラ・トゥールは故郷に戻り、そこで理性を失い、狂気となり、兄弟に助けられながら1788年亡くなりました。

美術館内には他にもルノワールの傑作パステル画1点とコローやアンリ・ファンタン=ラトゥール作品などがありました。

なお、この美術館は私が訪れた時は撮影禁止で、写真はWebから借用しました。