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美術館訪問記- 585 サント=セシル大聖堂、Albi

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:サント=セシル大聖堂南側

添付2:サント=セシル大聖堂東部

添付3:サント=セシル大聖堂入り口
写真:Creative Commons

添付4:扉上部の聖母子像

添付5:内部側壁と天井
写真:Creative Commons

添付6:内部西側
写真:Creative Commons

添付7:「最後の審判」図左側部分
写真:Creative Common

添付8:ジュベ

第237回のトゥールーズ=ロートレック美術館はフランス南部の町トゥールーズの北東65㎞程の場所にある古都、アルビにありますが、美術館と同じサント=セシル広場で向き合うように立っているのが「サント=セシル大聖堂」。

約200年の年月をかけて建造されたゴシック様式の大聖堂で、長さ113m、幅35m、壁の高さ40m、鐘楼の高さ78mという巨大さでレンガ造りでは世界最大級の規模を誇ります。

この城塞のような独特の大聖堂は、アルビを中心にスペインまでも信者を広げたカタリ派抜きには語れません。

中世に起こったカタリ派は、「キリストは神の子ではない」というようなローマ・カトリックから見て異端と思える思想を発展させてきた宗派で、しばしばアルビと関連付けられ、アルビジョワ派(アルビ派)とも呼ばれました。

当時自治領だったアルビ地方を併合したいフランス王と、異端者を一掃したいローマ教皇とが共同でアルビ地方のカタリ派への攻撃を開始したのが1208年。いわゆるアルビジョワ十字軍です。

弾圧は徹底しており、この地域のいたるところで虐殺と火刑が行われました。アルビ地方はこの弾圧で大きく弱体化し、1249年にフランス王国領となり、アルビは司教都市、つまりカトリックの司教が支配する都市となったのです。

着任した司教は、ローマ・カトリックの権威の回復と万一の残存カタリ派の襲撃に備えるべく、巨大な要塞のような大聖堂の建築にとりかかります。1282年の着工から1480年の完成まで200年近くをかけています。その巨大さと重量感はまさに異観。

来る者を威圧するような入り口は教会と言うよりも宮殿のようですが、大きな扉の上にある聖母子彫刻はそれに比べて優しく、周りを囲む繊細な模様や聖者・天使像と共に安らぎを感じさせます。

大聖堂内部は、外観とは対照的に豪華絢爛で繊細な画で覆われています。2段に分けられた側壁、天井、柱、柱と側壁を繋ぐ壁、柱と側壁の間にある1階天井、窓枠まで、全てが聖書の人物や聖人、また青を基調としたアラベスク模様で埋め尽くされているのです。

このように教会内部が全てフレスコ画で覆われているのは、ヨーロッパでもここだけで、総面積18,500㎡にもなるのだとか。

特産のパステルで描かれた天井画は、イタリアの画家を招いて1512年に完成以来、一度も修復をしていないというのに、美しい鮮やかな色彩を残しています。

聖堂内の西側には中仕切りのような壁があり、上部にはパイプオルガンが設置され、下部は壮大なフレスコ画で覆われています。

15世紀に描かれたフランドル様式の巨大なフレスコ画は「最後の審判」ですが、壁画は左右に分かれ中央上部にいるはずのキリストが見えません。

不幸にも、真ん中部分が18世紀に、その奥になるベルタワーの下に造られた礼拝堂への通路を設けるために破壊されてしまったのでした。

このフレスコ画は天国、地上、地獄と3つに区分されています。上段が天国、下段が地獄となっているのですが、地上の真ん中あたりから下に行くにつれ、地獄絵が迫真的に展開されます。

カタリ派のような異端者はこうなるという無言の圧力も加わっているのでしょう。

ジュベと呼ばれる仕切り壁は14世紀フランボワイヤンゴシック様式の傑作ですこれほど大きく繊細な彫刻の施されたジュベには滅多にお目にかかれません。

ジュベは教会の内陣と身廊の間にある木や石で造られた仕切りのことで、聖職者と非聖職者を分ける為に13世紀頃から造られるようになりました。しかし16世紀の宗教改革後、このような差別化を嫌い、多くの教会でジュベが取り除かれるようになり、残っているのは僅かです。

なお、要塞機能のためか、開口部が少なく、大聖堂内部の採光が不十分で、綺麗な写真が撮れなかったので、Wikipediaから借用しました。