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美術館訪問記- 583 フォール美術館、Aix- les- Bains

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:フォール美術館正面

添付2:アイエツ作
「裸婦」

添付4:ファンタン=ラトゥール作
「いたずらなキューピッドとニンフ」

添付5:ファンタン=ラトゥール作
「バティニョールの画室」 オルセー美術館蔵

添付6:ボナール作
「曲馬師」

添付7:ドガ作
「葵色のダンサーたち」

添付8:ブーダン作
「ルーアンのセーヌ川」

添付9:マルケ作
「ルーヴル河岸から見たパリ風景」

添付10:ロダンの部屋

スイスのジュネーヴの南60㎞足らずの所にフランス、エクス=レ=バンがあります。古代ローマ時代の公衆浴場跡がある温泉保養地として国際的に知られる都市で、ブルジェ湖のほとりにある、風光明媚な所です。

この町の丘の上にあるのが「フォール美術館」。

ヴィッラ・キメラと名付けられた1902年建築の3階建てのイタリア風建物で、1947年に市が買い取り、1949年、美術館として開館。

医者で美術品コレクターでもあったジャン・フォールの遺贈品に基づいており、これらは220点もの印象派前後の作品を含み、これはパリのオルセー美術館に次ぎ、34点のロダン作品はパリのロダン美術館に次ぐ、フランス第2の所蔵量を誇ります。

綺麗に手入れされた前庭を抜けて入館すると、アイエツの「裸婦」が優雅な姿を誇示していました。アイエツらしい、のどかな自然の中にくつろぐ女性です。

続いて藤田嗣治の「裸婦」が2点。1点は彼には珍しく暖色の背景に立つ裸婦です。黒々とした凝視しているような瞳も珍しい。

続いてファンタン=ラトゥールの「いたずらなキューピッドとニンフ」。ドクター・フォールは優雅な裸婦像がお好みのようです。

ファンタン=ラトゥールは何度か名前を出しましたが、まだ説明していません。

アンリ・ファンタン=ラトゥールは1836年、イタリア人画家兼絵画教師であった父とロシア出身の母の間にアルプスの麓の街グルノーブルで生まれ、1841年に両親と共にパリに移住。

幼少期に父から絵画の手ほどきを受け、国立美術学校に入り、1861年にサロンに初入選。その頃から敬愛していたクールベのアトリエに出入りしたり、マネ、モネ、ルノワール、バジールなどとの交友の輪を広げていきます。

バティニョール地区に移り、同地に住むマネを中心として若い画家たちが語らいを繰り広げていたカフェ・ゲルボワの常連となります。

この頃彼の描いた「バティニョールの画室」を添付しましょう。中央でマネが画架に向かって絵を描き、後ろに立っているのは右からモネ、バジール、一人置いてエミール・ゾラ、ルノワール。

椅子に座ってマネのモデルを務めているのが彫刻家で批評家のザカリー・アストリュク。彼は、印象派の画家たちと親交を持ち、パリの主要紙に印象派を支持する評論を掲載し、特にマネの擁護に努めた人物です。

マネを画面の中心にした群像の構成は、新しい絵画の導き手としての彼を称える意図が明確です。

壁の中央には、まだ描かれていない未来の絵画を暗示するように空の額が掛けられ、左手のテーブルの上には学芸の守護神であるミネルヴァの像が置かれています。

ただアンリは印象派の友人達のアカデミズムへの挑戦には大いに共感したものの、マネと共通してサロンへの出展にこだわり、印象派展には一度も参加せず、画風上は印象派の友人たちとは一貫して距離を置きました。

この絵も堅牢な画面構成で、作風も筆跡の見えないアカデミックなスタイルです。集団肖像画として前衛芸術家たちを描きながらも、1870年のサロンで3位に入選しています。

ファンタン=ラトゥールは、これらの絵のように、細やかな美しい絵肌で数多くの肖像画や花の静物画、神話画を制作し、1904年にビュレの別荘で死去。彼の作品は世界中の美術館でよく見かけます。

他にもボナールの珍しいサーカスの乗馬シーンやドガ得意のダンサー画、ブーダンとマルケの詩情漂う風景画などがあり、3階の一部屋はロダンの作品で占められていました。

個人コレクションとしては良質の作品揃いの美術館です。



(添付3:藤田嗣治作「裸婦」は著作権上の理由により割愛しました。
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