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美術館訪問記 - 571 バッサーノ・デル・グラッパ市立美術館、Bassano del Grappa

(* 長野一隆氏メールより。写真画像クリックで原寸表示されます。)

添付1:バッサーノ・デル・グラッパ、コペルト橋からの眺め

添付2:バッサーノ・デル・グラッパ市立美術館中庭

添付3:バッサーノ・デル・グラッパ市立美術館内部

添付4:アントニオ・カノーヴァ作
「獅子の頭」

添付5:フランチェスコ・イル・ヴェッキオ作
「死せるキリストへの哀悼」

添付6:ヤコポ・バッサーノ作
「エジプトへの逃避」

添付7:フランチェスコ・イル・ジョーヴァネ作
「金持ちたち」

添付8:レアンドロ・バッサーノ作
「クリストフォロ・コンポステッラの肖像」

添付9:ジェロラモ作
「福音書記者ヨハネを崇めるロドヴィコ・タバリーノ」

添付10:ロベルト・ロベルティ作
「バッサーノの橋」

イタリアの都市、ABC順に戻って、次はバッサーノ・デル・グラッパ。

ヴェネツィアの北西60㎞足らず、アルプスからの清流を運んで町の中心を流れる ブレンタ川にかかるコペルト橋からの眺めが素晴しい、美しい小さな町です。

度の強い食後酒グラッパで有名な町でもあります。 コペルト橋の両側にもグラッパを売る店が並んでいました。

そのコペルト橋から南東に300m程、ガルバルディ広場から少し引っ込んだ所に 「バッサーノ・デル・グラッパ市立美術館」があります。

隣接するサン・フランチェスコ教会の修道院を流用して、1840年には 美術品の展示が始まったという、ヴェネト地方では最も古い美術館の一つです。

昔の修道院のクロイスター(中庭)の回廊のアーチと芝生の緑が心地よい。

内部は外見とは異なる近代建築になっており、 彫刻と絵画がバランスよく展示されていました。

添付した館内写真の中央にある獅子の頭はギリシャ・ローマ時代の発掘品のように 見えるかもしれませんが、イタリアの誇る近代最高の彫刻家、 アントニオ・カノーヴァの作品なのです。

この部屋の展示品は全て彼の作品で、彫刻以外にも彼自身の素描、手紙、スケッチ、 本、石膏作品、撮影した白黒写真など3千点にも及ぶコレクションがあります。

ここに来たら郷土の誇る大画家一族、ダ・ポンテ家、通称バッサーノ一族を 採り上げないわけにはいきません。

バッサーノ一族については第406回で詳述しました。

その始祖フランチェスコ・ダ・ポンテ(1470-1539)、 通称フランチェスコ・バッサーノ・イル・ヴェッキオの 「死せるキリストへの哀悼」から始まり、一族ほとんどの作品が揃っています。

イル・ヴェッキオとはイタリア語で老人という意味で、同名の者が家族にいる場合、 二人を区別するために付けます。若い方はイル・ジョーヴァネと呼びます。 英語のシニアとジュニアに対応しています。

通常、画家バッサーノと言えば、フランチェスコの子供、 ヤコポ・ダ・ポンテ(1510-1592)を指しますが、彼には特別に一部屋が充てられ、 20作品が展示されていました。ヤコポ作品では世界最高のコレクション。

ヤコポの長男フランチェスコ・イル・ジョーヴァネ(1549-1592)は、 父ヤコポの下で修業し、3人の弟と一緒に父の工房で働いていましたが、 工房支店をヴェネツィアに創設することになり、 1574年、その責任者としてヴェネツィアに移住するとともに自立しました。

ところが、1580年代に病気がちとなり、やがて躁鬱症も患うようになりました。 1592年、父ヤコポが死去すると、バッサーノ・デル・グラッパにあった父の工房も 引き継ぎましたが、僅か数か月後に自殺しています。

ヤコポの次男ジョヴァンニ・バッティスタ (1553-1613)は、4兄弟の中では 最も才能に乏しかったようで、父親の作品の複製者として知られ、 彼の作品の多くには父親のヤコポのサインが認められていると考えられています。 この美術館には彼の作品だけは展示されていませんでした。

ヤコポの三男レアンドロ(1557-1622)は、長兄のフランチェスコから多くを学び, フランチェスコがヴェネツィアに移った後は父の工房の責任者となっています。

フランチェスコ亡き後はヴェネツィアに出て、兄の工房を受け継ぎ、 先ず肖像画家として成功します。次第にヴェネツィア共和国関係の仕事を 多くこなすようになり、共和国から1595年、ナイトの称号を与えられています。

ヴェネツィア派の影響を受けて画風を昇華し、当時のヴェネツィアにあって、 ティントレットと人気を二分する存在となり、成功裏に没。

ヤコポの四男ジェロラモ(1566-1621)は、父の工房で助手を務めることが多く、 ジョヴァンニ同様、父親の作品の複製者として知られ、ジョヴァンニのように 父のサインをしたのでしょう、工房時代の彼自身の作品は残されていません。

父の死後、工房から独立して仕事をするようになりましたが、1595年、 ヴェネツィアに出てレアンドロの工房を手伝いながら兄の1年前に死去。

ダ・ポンテ家の6人の画家ともバッサーノの名で呼ばれているので、 バッサーノの絵を観る時は6人の内の誰なのかを確認する必要があります。

ロベルト・ロベルティという画家が1807年に描いた「バッサーノの橋」は、 200年以上を経ても変わらぬバッサーノ・デル・グラッパを写し出していました。