鎌倉歴史周遊


2012/09/29

鎌倉に写真撮影に出かけた。

町田市のすぐ近くにも鎌倉時代に幕府のあった鎌倉と各地を結んだ道路網としての鎌倉街道とよばれる街道名が現在でも残っている。

この日は小田急線で、藤沢まで行き、JR東海道線大船で横須賀線に乗換えて北鎌倉で下車し北条時宗が創建したという円覚寺へ。北鎌倉から鎌倉へ。鎌倉で江ノ電に乗換えて長谷駅で降りた。長谷駅から大仏のある高徳院までは徒歩10分程度。長谷通りという沿道には、伝統民芸品などの店が目立つ。多くの外国人観光客が品定めをしていた。

鎌倉の大仏を見たのは、中学校の修学旅行以来。初秋の澄み切った青空にそそり立つ大仏の姿は気品のある美男子である。長谷寺に立ち寄り、江ノ電で稲村ケ崎で降り、湘南の海を見ながら昼食をとった。 明日から台風の影響で荒れるらしいが、この日は気温28度程で残暑を思わせるが、海面がキラキラと日の光を反射して、波も比較的穏やか。帰りは江ノ電終点の藤沢まで行った。春の花と秋の紅葉には外れていたが、天気もよく各駅で配布している観光案内を読みながらしばし歴史の時間となった。仏教や仏像について何かありそうと思ってシャッターを押し、説明の立て札やパンフレットなどを読み、後でネットや文献を調べると逸話があり興味が湧く。このごろのお寺も観光客サービスに力をいれているとの印象。

北鎌倉・円覚寺

1282年(弘安5年)、鎌倉時代後半北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建した。

方丈。方丈とは住職の居間であるが、現在では、11月の虫干しを兼ねて展示する「宝物風入」など各種儀式に使用されている。

禅修行者の為の専門道場

春は牡丹が見られるという。

妙香池。露出した岩は「虎頭岩」と呼ばれ、波浪の浸食に模して造られている。

紫式部

高徳院・大仏

手水舎(手を清める)

国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121t。

ここには大仏殿があったといい室町時代の明応7年(1498年)9月20日(明応地震)に地震と津波で倒壊したという。

長谷通り

長谷通り

「よひら」とは、四つの花片の意味で「あじさい」の別名。

長谷寺

彼岸花

見晴らし台からの眺望

輪蔵と呼ばれる回転式の書架を一回転させると、全ての経を読んだのと同じ功徳があるといわれている。保護のため、回転させることができるのは観音様の縁日である18日に限られている。

内部は撮影禁止

宝物殿。屋根の金色のものは、擬宝珠という。

四天王の広目天と踏まれている邪鬼

四天王の多聞天は毘沙門天とも呼ばれる。奥は持国天。

放生池(ほうじょうち)。放生とは捕らえた魚や鳥を放してやること。

奪衣婆(だつえば)と懸衣爺(けんねおう)

懸衣翁(けんえおう)とは、死後の世界の三途の川のほとりにある衣領樹(えりょうじゅ)という木の上、または川辺にいる奪衣婆の隣にいるといわれる老人である。 奪衣婆と共に十王の配下で、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るとされる。 罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのである。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという。

弁天堂(弁天窟)

ミズヒキ

稲村ケ崎・海岸

稲村ケ崎。鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉に迫ったとき稲村ヶ崎を越えられなかったため潮が引くのを念じて剣を投じ干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説がある。

相模湾を望むレストランで昼食。鎌倉へ行ったらこれを食べようと決めていた釜揚げシラス丼。ほくほくしたシラスと、海藻は磯の味がしておいしかった。あら汁は、具が魚の頭の骨だけでした。