薬師池公園便り

2023/03/04

梅まつり➂歴史を学ぶ

朝から良い天気になり、いつもの散歩コースに七国山を加えた。鶴見川ではカワセミが2羽追いつ追われつ激しく飛びまわっていた。求愛か縄張り争いかは不明だが前者のようだ。久々にバンがいた。こちらをみて岸辺の藪に隠れたが5分ほど待ってると出てきた。

七国山の花木は一年前と同じ景色だが少しずつ変わっている。カフェの風見鶏が閉店した。ここのステンドグラスがきれいだとSNSに出ていたがとうとう見れなかった。

薬師堂に出て少し下がって、薬師池公園の梅林を望む高台からみるとちょうど見ごろ。土曜日とあって多くの観梅客が来ていた。

10時半から園内の案内ツァーがあるとのアナウンスがあった。町田市に住んで37年になるが歴史など知識不足を感じてツァーに参加したが、客は私1名だった。私とほぼ同年代のツァーガイドの男性は、退職後に趣味で町田の歴史など調べているとのこと。初耳だったのは薬師堂の石碑についてのエピソードだった。


石碑

由緒書き

采女霊神と書かれた石碑の前に建てられていた町田理容組合の由緒書き

采女霊神のゆらい
天津児屋根尊の子孫である北小路左衛門慰公の三男采女介が天文年間(1532年~1553年)に髪結職を創始した。
 降って十代の長七郎が三方ヶ原合戦の時、徳川家康公にお供して天龍川で浅瀬を案内したことによって、銀、銭、刀等を賜り、天正十八年(1590年)江戸城に召された。そして町奉行所に関する仕事を授けられ、長脇差を許される等、特典を 与えられ大いに用いられた。
 これを記念して、春公二十七代の藤原半蔵基之が、その大要を由緒書きによって石に刻み、同好諸氏に示したものである。
 町田理容組合


Wikipediaによると、藤原晴基(または晴基)の三男藤原采女亮政之(1335年没)が日本における理美容業の祖とある。采女亮の子孫は代々髪結を業としていた。徳川家康が武田信玄の勢に押され敗退の際、17代目北小路藤七郎が天竜川を渡る手助けをしたことから褒美と銀銭一銭を賜り一銭職と呼ばれるようになった。


薬師堂の由緒書きには天文年間(1532年1553年)に髪結職を創始した采女亮(介)から、降って十代の長七郎が徳川家康を案内したとあるが、三方ヶ原の戦い(1573年)まではおよそ20年しか経ていないので間違いのようだ。Wikipediaによれば采女亮(介)の1335年没から三方ヶ原の戦いまでは235年ほどあるのでこちらが正しいと思われる。北小路左衛門慰(尉)公は藤原晴基と同じ人で、藤原鎌足の子孫と思われる。
天津児屋根尊(アメノコヤネノミコト)は日本神話に登場する神で天照大御神根の孫と一緒に天降った藤原氏の氏神とされる。


参考) 神奈川県理容生活衛生同業組合のホームページ
理容業業祖 藤原采女亮
亀山天皇の頃(1259~74)、京都北面の武士の藤原晴基は、御預かりの九龍丸の宝剱の紛失の責任から浪人し、子息の采女亮(うねめのすけ)とともに、当時、蒙古襲来で風雲急を告げる下関へ下り、往来の武士を客として月代そり髪結業を営み探索を続けた。 采女亮が下関で髪結いの仕事をはじめたのが床屋の始まりとされているのです。 なお、采女亮が開いた店には床の間が設えられ、そこには亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから、人々は「床の間のある店」→「床場」→「床屋」と呼ぶようになったと言われています。


薬師池・公園の歴史についても説明してもらった。

梅林の梅の種類についての説明。有名な南高梅が多いらしい。南高梅の名前は、和歌山県みなべ町の南部高校の園芸部の顧問をしていた竹中先生が、園芸部の部員たちとともに、最高に美味しく育てやすい梅を調査し、「明治時代に高田さんが発見した高田梅」が選ばれ、その「高田梅」と「南部高校」から名をとり品種登録をした。

南高梅




鶴見川

カンヒザクラ

ジョビタキ(オス)

ナズナ

バン

ジョウビタキ(メス)

七国山

右の赤い屋根のカフェ風見鶏が昨年閉店した。ここのステンドグラスがきれいだとSNSに出ていたがとうとう見れなかった。

サンシュ

春を告げるオオイヌフグリ

薬師堂

前述の石碑

由緒書き

薬師池公園

馬酔木

蓮田の熱海寒桜が咲き始めメジロが花蜜を吸いにきていた

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