ドイツ ボブリンゲン





ノートルダム大聖堂

11月の寒い頃であった。JALのポーイング747の2階席(upper deck)のビジネスクラス席。成田からフランクフルトまで快適な 空の旅であった。フランクフルトから国内線でシュツットガルトへの乗り換え。シュツットガルトはベンツ社の本社があることで 有名である。フランクフルトで空港アナウンスを聞いていると最初はドイツ語で続いて英語になる。 全く分からないドイツ語をボンヤリ聞いているといつのまにか英語になって結構聞き逃してしまう。 何でもセキュリテー上から飛行機に乗り込む前に自分の荷物を指差すことが必要らしい。 荷主の不明な荷物を積みこまないようにしていた。飛行機に乗り込む前にカートに積んであるパンやジュース とバナナのはいったランチ袋を自分で持っていく。 飛行機に乗り込むと帽子もかぶっていなくて質素な制服(昔の郵便局員の女子制服のような)を着た女性がにこ やかにGood morningといってくる。私は掃除のお姉さんかと思ったがスッチーであった。 日本の航空会社とはえらい違いである。 シュツットガルト空港へはドイツに長期滞在している日本人が迎えにきてくれた。目的地はシュツットガルトの南郊外 のボブリンゲン(BOBLINGEN)である。
翌日は時差調整日として休日であったが、先に同じホテルにきていた日本人社員2人とフランスのストラスブールへ 電車で観光に出かけた。ストラスブールはライン川にちかくドイツ語で「街道の街」の意味、独仏の国境紛争の地であるが、第2次大戦後は フランスに属している。神聖ローマ帝国時代にはカトリック教会の重要な地となり都心にあるカテドラル(ノートルダム大聖堂) は世界遺産としても有名である。この協会は地元の砂岩で作られているためバラ色である。

大聖堂からの帰り、石畳の道はヨーロッパの雰囲気が感じられる水路沿いを歩いた。 近くのレストランでジャガイモと肉の料理を注文したがあまりのボリュームに半分も食えなかった。 なるほどドイツ人は大きい。 ホテルでテレビを見ていたら、ベルリンの壁に若者が登ってハンマーでたたいていた。 ドイツ語なので分かり難いが、歴史的な一瞬であったことは分かった。1989年11月9日であった。
ドイツの職場では定時になると全員帰宅する。いつまでも残っている人は、仕事の出来ない人と評価されるという。 ドイツ人が労働生産性が高いのはよくしられていた。
日本では上司が「彼は、夜遅くまで頑張って仕事をしている」などと評価する。部下は遅くまでいると評価される のかと思う。残業手当は入るし、帰れるのに何かすることはないかと残る。なにしろみんな残業しているから、帰りにくい。

最終日は休暇だったので思い切ってミュンヘンにいくことにした。 早朝シュツットガルト行きの電車にのった。ところがシュツットガルトのビルが見える手前で地下に入った。 先日のストラスブールへ行くときはシュツットガルトは終点であったが、地下鉄を出たときは後方にシュツットガルト のビルが見えた。あわてて次の駅でおりた。シュツットガルトまでたどり着き、ミュンヘン行きの電車にのった。 ヨーロッパの列車の旅は外の景色が大変に美しい。緑の絨毯のような丘にオレンジ色の屋根の家が続く。

ミュンヘンはついてみるとかなりの大都市である。街を歩くだけでも楽しい。ランチとしてソーセージとパンを 食べたがソーセージ大好き人間としては日本のソーセージの方が口にあう。ドイツ語でソーセージはWurst(ヴルスト)というくらいは知っていた。



事前にしらべてあったミュンヘンで有名な新市庁舎にいった。新市庁舎といっても1867年から1909年に建てられた ネオゴシック様式の建物である。塔の仕掛け時計はグロッケンシュピール(Glockenspiel)という。毎日11時、12 時、17時から約10分間動く。1568年に行われたバイエルン大公ヴィルヘルム5世とロートリンゲン(ロレーヌ) 公女レナーテとの結婚式を再現した物であり、上段、下段の順に動く。
帰りの電車が問題だった。ミュンヘン駅の時刻表で、シュツットガルト到着予定は17時過ぎとあって乗り込んだ。 ドイツでは駅の改札はなく、電車のなかで車掌が回って切符をみる。車掌がドイツ語でなんとか言っていたが全くわからない。 あとでわかったのだが、外国人には駅で消費税のようなものを返してくれるらしい。17時ごろ社内放送がありシュツットガルト ときいた(ような気がした)。降りるときにドイツ人の女性にシュツットガルト?ときいたら、ヤーと応えた。 何しろ駅の名前の看板がどれだか解らない。日本ではT型の線の上にその駅が表示され、下に前の駅と次の駅が表示される。 降りてしまったら全く別の駅であることに気が付いた。時刻表をみたが直通の電車はもう無いらしい。 近くの女性に聞いたら英語が通じない。女性は私の手を引っ張って駅員のところに連れて行ってくれた。 駅員も英語が通じない。学生風の若い男性が「English?」といってきたので「Yes」と答えた。彼のおかげで 何番ホームで何とか行きの電車でどこそこまでいってそこから乗り換えるのだと解った。観光地では英語がほぼ通じるが 通じない場所も多いと実感した。ようやくホテルについたのは夜10時を過ぎていた。ホテルのレストランは閉まっており、 部屋に残っていたパンを食べて晩飯代わりとした。

翌日は帰国の日であった。アムステルダム経由、北極上空経由アメリカのアラスカ州アンカレッジ経由空の旅であった。 昔はソ連上空は軍事上の理由で通過できなかったが、偵察衛星の発達などで簡単に上空から偵察されるようになった。ソ連は上空通過料を 徴収することで上空の通航を許可した。飛行機自体の航続距離の伸びもあり、日本・ヨーロッパ路線は給油の必要がなくなりノンストップ が可能になった。私の場合も行くときはソ連上空経由であった。当時はアラスカ経由路線もまだ残っており、座席もとりやすかった。 アンカレッジ経由では、北極上空から機長のアナウンスによりオーロラもみられたし、マッキンレーも見ることができた。 飛行機代金は往復60万円を越えていた。




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