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クニマス展示館と千葉治平

2016/06/28

2010年絶滅したとされた田沢湖の固有種クニマスが西湖で生息が確認されたという報道がマスコミに大きく取り上げられた。

幹事をしている秋田の高校同窓会の今年度会報に、母校の先輩で秋田県田沢湖町生まれの千葉治平(1921年10月31日 - 1991年6月23日)の記事を掲載することになり、古書を購入などして情報収集した。

千葉治平については後述するが、直木賞を受賞した小説「虜愁記」は、千葉治平が中国での経験をもとに実在モデルの日本人がいたらしいが、あくまで創作。1978年に発表した「山の湖の物語 田沢湖・八幡平風土記」(秋田文化出版社)は、多くは千葉が少年時代の経験や伝聞をもとにしたもの。忘れかけていた方言も懐かしく同じ仙北郡で少年時代を過ごした自分の記憶と重なって、郷愁を感じさせる作品である。このなかで特に田沢湖とクニマスについて何か所でも触れており絶滅を残念がっていたが、私の子供の頃近くに淀川という雄物川の支流があり、ウグイ、アユ、ナマズ、鯉、鮒などの淡水魚を釣ったり、夏は潜って 銛(ヤス)で捕ったりした。危険な目にも遇い、大物を捕って有頂天になったこともあった。自然の川、沼、湖とそこに生息する生き物との関わりは少年時代の心に深く残る。

ちょうどこの物語を読み終えた頃、西湖の近くに「クニマス展示館」が開館したとのNHKニュースを見た。 近いうちに生きたクニマスを是非みたいと思っていた。

山梨県富士河口湖町でハーブフェスタが開催されており、河口湖のラベンダーの写真撮影も兼ねて、西湖を訪れようと思い立った。


毎日新聞2016年4月28日 地方版 記事

クニマス 奇跡の魚、常時公開 西湖畔に展示館 「保護進め秋田に帰したい」 /山梨

かつて秋田県の田沢湖で絶滅したとされ、2010年に約70年ぶりに西湖(富士河口湖町)で生息が確認された淡水魚のクニマスを展示する「−奇跡の魚(うお)−クニマス展示館」が27日、西湖畔で開館した。西湖の環境保全について考えてもらうのが目的で、生きたクニマスを常時公開するのは初めて。県は「クニマスの保護を進め、将来的には田沢湖にも帰せるようにしたい」としている。

 クニマスはサケ科の日本固有種。かつて田沢湖のみで生息し、開発に伴う水質変化によって1940年以降は絶滅したと言われる。現在も魚類はウグイしか住んでいない。

西湖でクニマスを再発見した中坊徹次・京都大名誉教授によると、35年などには食料確保や種の保護のため、田沢湖のクニマスを富士五湖で放流したといい、西湖で生き残っていたとみられる。地元では「クロマス」として知られていた。

10年の再発見後、県水産技術センターが人工授精でふ化に成功。その後、同センターでの飼育数が増えたことから、展示が可能となった。

新施設は、観光施設「西湖蝙蝠(こうもり)穴」の管理棟を増改築。総工費約1億1700万円をかけて、3月に完成した。

水槽展示コーナーで展示しているクニマスは体長約30センチの成魚(4歳)が2匹、数センチの稚魚が10匹。この他にも西湖に住む、ヒメマス▽ウナギ▽ナマズ▽ウグイ−−などの魚が展示されている。

またクニマスが西湖で発見された経緯や保護に向けた取り組みなどもパネルで紹介。クニマスの生態などを映像で紹介する「クニマスシアター」もある。

田沢湖がある秋田県仙北市によると、同市内には来年春「田沢湖クニマス未来館」がオープンする予定。山梨県のクニマスを展示し、田沢湖に戻すための取り組みを進める計画だという。仙北市の門脇光浩市長は「山梨県にも協力してもらい、クニマスの“里帰り”を果たしたい」と話した。

 入館は無料。年中無休で、午前9時〜午後5時。問い合わせはクニマス展示館(電話0555・82・3111)。【松本光樹】

入館無料。フラッシュを使わなければ写真撮影OKとのこと。

クニマスについて秋田県田沢湖と山梨県西湖の関わりが年代で説明されている。

1935年田沢湖から西湖にクニマスの卵を運び孵化し放流された。

「さかなクン」(本名宮澤 正之、父親が囲碁のプロ棋士宮沢吾朗九段)がクニマスではないかと思ったのがきっかけとなった、と聞いているがここでは触れていない。

クニマスの里帰りを目指して、と書かれているが、スタッフの男性によると、田沢湖は生息できないということで、話は進んでいないという。

こちらはヒメマス

初めて見た生きたクニマス(4歳)

クニマスは大変美味で、昔は米1升と交換された高級魚。肉は純白でやわらかく、生臭さがなかった、と千葉治平の小説にあった。

クニマス(1年)

西湖




千葉治平



千葉治平(本名堀川治平)は秋田県仙北市田沢湖町出身。

1940年(昭和15年3月)秋田工業学校電気科を卒業後、南満州鉄道化学研究所に入社。現地で招集され終戦を迎えた。

千葉治平

復員後、故郷の秋田に戻り、農業の傍ら1946年「月刊さきがけ」の懸賞小説に応募した「蕨根を掘る人々」が一席入選。選者であった伊藤永之介に師事し共に1947年「秋田文学」を創刊。

「秋田文学」23号~27号(1964年8月~1965年11月)に発表した小説「虜愁記」が、第54回(1966年)の直木賞で初候補になり、そのまま受賞。千葉治平44歳のこと。

この小説は、中国で敗戦を迎え捕虜として洞庭湖の湖畔湖南省岳州(現在の岳陽市)の村に送られた日本兵と中国人たちの、「民族同士の根強い不信感、憎悪と闘って人間的な信頼を回復」していく物語。実在のモデルがあったようである。

直木賞作家という華々しい肩書を持ちながらも秋田に留まり東北電力に務めながら作家活動を続けた。1976年東北電力を定年2年前に退職、文筆活動に専念。

1978年「山の湖の物語 田沢湖・八幡平風土記」(秋田文化出版社)を発表。田沢湖を中心とした、湖の周辺の人々の伝説、物語、風物など、多くは少年時代の思い出で、タツコ姫の伝説とともに木の尻マスと呼ばれたクニマスを「田沢湖の精」として滅亡を惜しんだ。

存命中には、富士五湖や琵琶湖に移植された後の消息は聞けなかったが「もと漁師のなかには、田沢湖と条件の似通った富士五湖には、或いは生きているかもしれないという人がいる」とわずかな望みをもっていた。

西湖での発見を知ったらどんなに喜んだことか。この物語は、秋田文化出版社から1978年初版、1983年再版発行された。

1982年胸部疾患のため療養生活に入った。闘病生活は9年6ヶ月に及んだが、1991年6月23日永眠。享年69。

1991年 盛岡タイムス社から出された、江戸時代南部藩の牛方(牛を使って荷物を運ぶ人たち)として成長していく青年の物語「南部牛方ぶし」が絶筆となった。

千葉治平が文壇に登場するきっかけとなった「月間さきがけ」の懸賞小説選者伊藤永之介は遡って1924年同郷の金子洋文を頼って上京している。金子洋文は大正2年秋田工業学校機械科卒で。また伊藤永之介は、名作映画とされる会津磐梯山麓の町を舞台とした森繁久弥主演の1955年日活映画「警察日記」の原作者。

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