富岡製糸場(群馬県富岡市・2011/08/29)

長野への途中「富岡製糸場」見学。「天皇・皇后両陛下が8月23日富岡製糸場を視察された。」というニュースがあった。
撮った写真やパンフレットを元に情報を集めてみた。



 富岡製糸場は、明治政府が、輸出品となる生糸の品質向上などのために建てた工場で、現在は操業が停止されているが、主要な建物がほぼ当時のまま保存されている。
世界遺産暫定リストに記載され、いわば世界遺産候補というところ。
 平成17年(2005年)7月14日に、国史跡に。
 平成18年(2006年)7月5日に、明治8年(1875年)以前の建造物が国の重要文化財に指定。(現在、富岡市で管理)

入場券と一緒にもらった繭。
白色は「ぐんま2000」、黄色の「ぐんま黄金(自然色)」は、群馬県が育成した蚕品種「ぐんま」と中国種との交配により作り出された品種。繭糸は細く、黄金色の光沢があり、しなやかな風合いで、希少価値の高い逸品。

年配男性の郷土愛あふれるボランタリーガイドにより場内を見学。

記念碑。
創業翌年の明治6年(1873)、明治天皇の要請により、皇后、皇太后ご一行が 富岡製糸場を行啓されたが、70周年の昭和18年(1943)に行啓記念碑を建立(高さ4.6m、重量5.34t)、台石は工女が皇后から賜った扇をかたどり、台座は三波石。
 皇后が詠まれた

      「いと車 とくもめくりて大御代の 
       富をたすくる道ひらけつつ」

この歌には、製糸場の発展が日本の繁栄につながることへの期待感が表わされている、とのこと。

東繭倉庫
入口の中央には「明治五年」と書かれたキーストン(カナメ石)。この建物は明治5年に建てられたもの。レンガ、漆喰、木材を使用。

フランスから輸入された繰糸器

国営から民営になり、片倉製糸紡績株式会社時代になると洋服を生産するようになり、片倉時代に製造したと思われる洋服が展示されている。
左側の賞状は、卓球大会のもの。福利厚生が整っていたのかと想像した。

群馬県のオリジナル蚕品種の紹介。


花まゆ「花便り」

紹介の映画上映コーナー

東繭倉庫。明治5年(1872)建築。

東繭倉庫。木材の骨組みとレンガで創った。レンガの繋ぎは漆喰が使われ、礎台は砂岩が使われた。

乾燥場

現在の煙突は昭和14年(1939)に建造された鉄筋コンクリート製。(高さ37.5m 直径2.5m)
明治5年(1872)には高さ36mの鉄製の煙突が建てられた。現在の煙突と位置は異なる4.4mのレンガ積みの上に、高さ1m 直径1.3mの鉄製の筒を積み上げ、四方に鎖を張って支えていた。この初代の煙突は、明治17年に暴風によって倒壊。高い煙突が設けられたのは、石炭を燃やす際に発生する煙対策。

東まゆ倉庫の内部。1階に事務所や作業所が、2階に乾燥させた繭を貯蔵。

女工館。
明治6年(1873)建築。日本人の工女に糸繰技術を教えるために雇われたフランス女性教師の住居。

繰糸場。昭和40年代以降の自動繰糸機がビニールカバーが掛けられ、保存されている。

ブリューナ館。
 明治6年(1873)建設。広さ320坪(1056u)木骨レンガ造平屋建ての住宅。高床で廻廊風のベランダやよろい戸がある開放的で涼しい造りが特徴。
フランス人指導者ポール・ブリューナが、明治8年(1875)末の任期満期まで家族と共に居住した。
その後建物内部は改造され、工女の夜学校や片倉富岡高等学園として利用された。

プリューナ館

写真の後列右から二人目がプリューナ

「ポール・ブリューナ(Paul Brunat、1840年6月30日 - 1908年5月7日)」について。(wikipediaより)

 1840年フランスで生まれる。蚕糸業が盛んな地で育ち、フランスの絹織物取引の中心地リヨンで生糸問屋に勤めた。その後同地のエシュト・リリアンタール商会に移り、同社の横浜支店(蘭八商会)に派遣された。
横浜港には1866年3月22日(慶応2年2月6日)に到着し居留地内の事務所に勤務。
明治に入ると日本の主要輸出品である生糸の生産を改革するために製糸工場の建設が検討され、ブリューナは明治3年7月(1870年8月)にイギリス公使館の書記らとともに候補地の視察に出ている。この際に武蔵国、上野国、信濃国を見て回り、交通の便が良い、動力源の石炭および水が豊富 建材の石材が入手しやすい事などから、富岡の陣屋予定地が建設地に選定された。
 東京に戻って同年10月7日(1870年11月29日)に契約を結び、ブリューナは1871年(明治4年)から日本政府に5年間雇用される事となった。富岡製糸場の建設に先立って機材購入や技師の雇用のために一時フランスに香港経由で帰仏した後、製糸工2名・工女4名と契約を交わし、さらに当時18歳のエミリー・アレクサンドリーヌと結婚。彼らとともに1871年10月29日にマルセイユを出航し、香港で横浜港に到着した。
 ブリューナには月給600円に加えて賄金が毎年1,800円、合計9,000円の年俸が支払われており、お雇い外国人のフランス人としては横須賀製鉄所のレオンス・ヴェルニーが受け取っていた年俸10,000円に次ぐ金額であった。一般的な日本人職工の年俸74円などに比べて非常に高額なことから後に問題となり、1874年(明治7年)7月8日には大久保利通が、同年8月には伊藤博文が三条実美に契約の中途解約を進言している。
 1872年(明治5年)7月には妻のエミリーとの間にマリ・ジャンヌ・ジョゼフィーヌという長女が生まれ、横浜のイエズス会で洗礼を受けた。後に次女も生まれ、契約を終えて1876年(明治9年)2月15日に横浜港からブリューナ一家は帰仏。

帰国後、1882年にはアメリカの商社・ラッセル商会に招聘され、ブリューナは支配人として同社の上海での製糸工場(寶昌糸廠)建設に携わった。しかし1890年にラッセル商会が破産したため、かつての同僚らとともに上海でポール・ブリューナ商会を設立し、製糸代理店を含めた貿易業務全般を扱った。会社の経営は順調で、1906年に設立時のメンバーであるハンターらに経営権を譲渡し、この際に社名がバラード・ハンター商会に改名されている。
 1906年(明治39年)に上海からフランスに帰る途中で日本を訪れ、8月2日に横浜に上陸した。数日間を横浜で過ごした後、8月20日まで富岡製糸場など各地を回って横浜に戻り、数日後には箱根を訪れて富士屋ホテルに1ヶ月ほど滞在している。
9月23日に妻とともにフランス郵船・コレア号で日本を離れた。
 1908年5月7日(木)パリの自宅、エミール・オージエ大通り48番地( 48, Boulevard Emile Augier)で逝去。