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御坂峠天下茶屋と太宰治文学記念室

2016/02/20,21


富士山の絶景ポイントして知られている御坂峠天下茶屋付近に、初めて行ったのは2013年10月のこと。同窓会の写真同好会の会員で写真暦50年以上特に富士山の写真を撮り続けている同級生市川さんの案内で行ったこの日は小雨で茶屋には立ち寄らず、富士山も見えず立ち返った。

2016年2月20日と21日にかけて再度同好会で富士山の撮影旅行を実施した。あいにく20日は雨天だったので天下茶屋に昼食のため立ち寄った。

あるじの勧めで名物の「きのこほうとう鍋」を注文している間、茶屋2階の「太宰治文学記念室」を見学。2階の和室には太宰が逗留した当時の机や火鉢がおいてあり床柱も当時のもの、いかにも昭和初期の作家が小説を書いている雰囲気を思わせる。

山中湖畔に泊まり翌21日、山梨県地方は快晴。再度昼時に天下茶屋を訪ねた。茶屋前には大型の観光バスで来た著名なプロ写真家の講師を伴った写真撮影の団体や家族連れなどで賑わっており、多くのカメラマンが標高1,300メートルからの富士山の絶景にシャッターを切っていた。再度茶屋の2階から太宰治も見た富士山の写真を撮った。

右下方には河口湖、中央には富士がみえ、太宰が短編小説「富嶽百景」で「むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが」と書いたほどの絶景に魅了される。

太宰治は中学校の国語教科書「走れメロス」の作者として多くの人に知られており、高校生のころ何かの文学全集に載っていた作品は全部読んだが、内容は忘れてしまった。津軽の大地主の出で何度も女性と自殺を図り最後は玉川上水で自殺した記憶は残った。

今回のことがきっかけで50数年を経て青空文庫で再び「富嶽百景」を読むことになった。 秋田の高校のころ実物の富士山は見たことがなかったが、この年になって初めて太宰が見た御坂峠の富士山に接してから読んだ小説はまた別の味があったように思う。

天下茶屋は昭和9年の建立。戦国時代に武田氏と北条氏が戦った御坂峠は、富士吉田と甲府を結ぶ主要道路の中間点で峠を行きかう旅人に食事など出していた。太宰がいたころは路線バスも通り「富嶽百景」にもバスの話が出てくる。 有名な「富士には、月見草がよく似合ふ」の一節も、太宰が河口局から郵便物を受け取り茶屋への帰りのバスで同乗した老婆が月見草を見つけたことから。余談だが太宰治が見た月見草は、同属種の待宵草だったらしい。月見草は白い花を待宵草は黄色の花でよく間違われるらしい。

徳富蘆花の兄で当時のジャーナリスト徳富蘇峰が新聞に富士の眺めが天下第一として茶屋を紹介したことから「天下茶屋」と呼ばれるようになった。

太宰治は4回目の自殺未遂のあと、昭和13年9月に井伏鱒二が滞在していた天下茶屋に連れられて来た。それまでの精神的に病んでいた状態から立ち直るきっかけとなったとされ、およそ3カ月の天下茶屋の滞在の間の出来事を、短編小説「富獄百景」に残している。

昭和23年6月13日太宰は美容師山崎富栄と共に入水自殺し38歳の生涯を閉じた。 晩年太宰は肺結核が悪化しており、山崎富栄は執筆の手伝いや太宰の介護をしていた。

昭和28年に茶屋の主は井伏鱒二とともに太宰治文学碑を建立した。昭和42年新御坂トンネルが開通したことから、茶屋は約10年間休業したが、昭和53年から2代目が営業を再開した。


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老婆も何かしら、
私に安心してゐたところがあつたのだらう、
ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
さう言つて、
細い指でもつて、
路傍の一箇所をゆびさした。

さつと、
バスは過ぎてゆき、
私の目には、
いま、
ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、
花弁もあざやかに消えず残つた。

三七七八米の富士の山と、
立派に相対峙し、
みぢんもゆるがず、
なんと言ふのか、
金剛力草とでも言ひたいくらゐ、
けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、
よかつた。

富士には、
月見草がよく似合ふ。
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(「富嶽百景」より)



御坂峠天下茶屋

机や火鉢は太宰が逗留した当時のもの

太宰治文学碑。井伏鱒二が選び、文字は太宰治昭和18年「右大臣実朝」の原稿から集字した。

茶屋2階

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